France/USA/UK 「えっと・・・クッキーと、あとなんだっけ・・・確かミルクだったかな・・・」 戸棚から拝借したクッキーを数枚、小さなお皿に乗せて、別のお皿にはミルクを。それらを窓辺に置いて少しだけ首を傾げながら考えると、神に祈りを捧げるように手を組んでお願いする。 俺の目には見えないモノ。だけど愛しい人にとっては大切な友人、らしい。 彼等に、勝手なお願いを一つ。どうか、どうか彼に伝えて――。 二つのココロ はぁっと知らず零れた溜息は白く、けれどすぐに冷たい空気に溶け込んで消えていった。 寒風が吹き荒ぶプラットホームで一人列車を待つ。一際冷たい風が叩きつけるように横殴りに吹いて思わず身震いすると、襟を立て直してもう一度大きく息を吐いた。 馬鹿馬鹿しいことだとわかっている。自分の行動が可笑しいとわかっている。明日の朝にはこのロンドンで仕事をするというのに、僅かな時間の為にユーロスターで海峡を渡ろうとしている。あの気取った愛を嘯く花の都に行こうとしている。 別に何をするでもない、そもそも何も期待していない。ただあいつの顔を見たいだけ。あいつが作った料理を食べて美味い酒を飲んでくだらない話をして幾らか眠ったら、今の俺より少しはマシになれるから。精神安定剤のような時間が今の俺にはどうしても必要だから、行かなきゃいけない。 身体が鉛のように重い。あの家にいても眠れない。ひどく疲れている、心も身体も。 アメリカとの契約を後悔している訳じゃない、これは必要なことだった。欧州が、英国が救われる為には。俺の身一つで確かにアメリカは動いてくれて、結果的に多くの国がデフォルトを回避できた。多くの国民が救われた。感謝してもしきれないくらいだ。 だけど、心が軋んで堪らない。 アメリカに抱かれる度、心にインクがぽたりと落ちては滲んで染みになって、いつしか真っ黒に塗り潰されてしまった。はらりと手足に絡む細い糸は束になって俺を縛る。そうして少しずつ息ができなくなった。 どうしてこうなってしまったのか、あいつは一体何が愉しくて元兄の身体を抱いているのか。 こんなはずじゃなかった。あいつが出した条件を受け容れた時は、どうせただの酔狂だろうと高をくくっていたんだ。何かのきっかけで男の身体に興味を持ったか、それとも凋落した元宗主国の身体を蹂躙してみたくなったか。どんな理由にせよ、ただの一度でもヤらせてやれば気が済むだろうと思ったんだ。 だって、俺だぞ?こんな薄っぺらくて骨ばった身体、抱き心地は最悪だろうに。あちこち古傷だらけで綺麗でもない。女みたいにきめ細かい柔肌でもなく豊かな胸も尻もない。男が悦ぶ要素など欠片もない。 それなのに初めてベッドインした時――あいつは興奮して荒い息を吐き、血走った眼で俺を見た。貧相な身体に萎えるでもなく、確かに欲情していた。かつて育てた幼子の見たくもなかった一面を見せつけられて、絶望と恐怖に震える俺をあいつは嬉しそうに穿った。 熱い欲望が放たれて、やっと終わったとほっとしたのも束の間、それは終わりではなくむしろ始まりで。あれから何度関係を持っただろう。望んでいないセックスは怖ろしくて苦痛でただひたすらに辛い。身体を暴かれる度に心がバラバラになって、だけど逃げることは許されない。 揺さぶられている間俺にできることは、あいつのご機嫌を損ねないように振る舞うだけ。そうしてこっそり胸の内に仕舞ってある想いを抱き続けるだけ。 それは俺にとってかけがえのないモノだから。 あの心底ムカつく髭面のワイン野郎への・・・想い。 これだけは譲れない、絶対に。 あの日、鬱蒼と生い茂った森の中、俺はひと目で恋に落ちた。 陳腐な言葉で言い表わせば、運命の出会い、だったのだろう。 アナウンスが流れプラットホームに列車が入ってくる。その黄色と白のボディを見た瞬間、僅かながらも身体が軽くなった。これでまたあいつに会える、そう思うと胸が否が応にも高鳴る。莫迦みたいだけれど、俺が俺を保つ為、ほんの数時間ロンドンを離れる。これはどうしても必要なことなんだ。 安堵の吐息を漏らして一歩足を踏み出した、その時。 後ろから乱暴に腕を取られた。 振り返った先には凍てつくようなアイスブルー。怒りを宿した瞳が爛々と光を放って俺を射抜いていた。 「アメリカ・・・」 「こんな時間から、何処に行くんだい?」 いつかは、て思っていた。こんなことを毎回繰り返していれば、そう遠くないうちにバレるだろうって。だけど海峡を渡ることを俺は止められなかったし、バレたら怒られるだろうって覚悟もしていた。でも、ここまで凄絶な眼光で睨まれるとは思っていなかった。所有物の勝手な行動がそんなに許せないか。 竦んで動けなくなった俺を見て、アメリカはすっと目を眇めた。負い目を感じていることに気付いたか、腕を掴む指に力が篭り、はっきり痛い。顔を歪める俺に斟酌することなくアメリカは踵を返す。引き摺られるように駅舎の外に出てタクシーに押し込まれると、これで今日はもうフランスに会えないのだと悟った。 どうしてお前此処にいるんだ。空港できっちり搭乗ゲートを潜ったところまで見届けて来たのに。あれからお前は俺の後を追っていたのか。そもそも俺がパリに行って何が悪い?あいつの料理食って酒飲んで寝るだけじゃないか。寝ると言ってもセックスする訳じゃない、あいつは俺のことをそんな目で見ていない、知ってるだろう? 「・・・そんなに唇噛んでたら傷つくんだぞ」 慮るような声が聞こえてきたけれど、顔を合わせることもできない。じわりと目に涙が浮かぶのを堪えてひたすら自分の膝小僧を睨み続ける。呆れたか溜息を漏らすアメリカが、そっと俺の腕を掴む手を滑らせ指を絡めてきた。ぎゅっと俺の手を握って、まるで恋人同士のようだ。温かな掌から熱が伝わってきて、どうしようもなく心が震える。 もう本当に限界だった。 アメリカはやさしい奴なんだ。こんな関係になってから時に癇癪を起こしたように乱暴になるけれど、いつもは努めて紳士的に振舞ってくれる。金で契約しただけなのに誠実な態度で接してくれる。 休日の度に遊びに来ては俺をあちこち連れ出して、他愛のないことを話しながら歩く。一つのアイスを分け合って食べたりするのは、なんだかデートみたいでこそばゆかったけれど。映画を見ては同じ場面で涙を流したり笑ったり、そうやって穏やかな時間を共有するのは俺だって愉しいんだ。 だけど最近アメリカは笑わなくなった。昔はいつだって楽しそうに笑っていたのに。自信家で楽天的でとにかくポジティブで、喜怒哀楽が激しい子供のようだけれど、くるくる変わる表情を見るのは好きだった。 それなのに、いつからか硬い表情で虚空を睨むようになった。たぶんこの関係を持ってから。だとしたら俺のせいなのか?俺はどうすれば良かったんだ? 「降りるよ」 短く低い声で囁かれて手を引かれる。気付けば俺の家に着いていた。そうして玄関を潜りドアを閉めた途端、ダンッと壁に叩きつけられた。 「うっ・・・ぐ・・・」 予想していたから受け身を取ったにも関わらず、衝撃を逃しきれずにぐわんぐわんと視界がぶれる。息を詰まらせて朦朧とする俺に構わず、アメリカは噛み付くようなキスを仕掛けてきた。激しく吸われ口内を貪られる。コートとカーディガンを剥ぎ取られ、火傷しそうなくらい熱い掌がシャツの内側へと滑り込み脇腹を撫ぜる。 「い・・・や、だ!」 思わず腕を突っぱねて抵抗すれば、アメリカは苛立たしげに舌打ちをして俺の腕を掴みあげ、強い力で壁に縫い留めた。 「拒むのかい、俺を?君にそんな権利・・・」 「違う!此処じゃ嫌なだけだっ!ちゃんとベッドに・・・」 「待てないよ」 「や、アメ・・・っ」 首筋にがぶりと噛み付かれて本能的に身体が震える。熱くぬめりを帯びたものが這い回るとぞわぞわと背筋に悪寒が走った。ベルトを引き抜かれスラックスが床に落ちる。無造作に下着の中に侵入してきた手が俺の肉付きの悪い尻を鷲掴みにして、そのまま奥の窄まりに触れた。 「ひっ・・・や、ぁ」 「力抜きなよ、君だって痛いのは嫌だろう?」 「うぁ、や、痛・・・っ」 「わお、思ったより簡単に挿入ったんだぞ」 一晩中散々荒らされたそこは未だに柔らかく熱を帯びていて、アメリカの指をすんなりと咥え込んだ。ぐちっと湿った水音とデリカシーのない台詞が耳に届いて、羞恥に涙が浮かぶ。指はすぐに二本に増やされ、馴染んだ行為に俺の身体はいともたやすく快楽を引き出されていく。こんな愛のない関係で感じたくないのに甘い息が漏れるのを抑えられない。 「ん、ふぁ・・・っ、・・・ぁ、」 知り尽くされた弱いポイントを責め立てられれば、立っていることも難しくて必死に目の前のアメリカにしがみついた。 「・・・いやらしい身体だね、もうぐちゃぐちゃなんだぞ」 掠れた声で揶揄されるのに違うと首を振るけれど、自分でもわかっている。下腹部に熱がじんじんと篭っていき、ペニスが芯を持っている。与えられる刺激にもっともっとと、強請るように腰が揺れてしまう。 自分で自分の身体が許せない。どうして感じてしまうのだろう、どうして乱れてしまうのだろう。この行為を心は望んでいないのに。 「挿れるよ」 指が内側のポイントを掠めながら抜けていくと、ぐるんと身体を回転させられ壁に向き合う形で押し付けられた。腰を高く持ち上げられ、熱く張り詰めたモノがそこに充てがわれる。 「あ、いぁ・・・っ、・・・――――っ!」 そうして俺は、結局玄関で無茶苦茶に抱かれた。 一度達した後アメリカは俺を荷物のように担ぎ上げ、薄暗い寝室のベッドの上に放り投げた。シャツ一枚羽織るだけで冷たいシーツに触れた肌が総毛立つ。うう、と呻く俺に構わずアメリカはベッドサイドに立ったまま、何やらゴソゴソしている。薄く目を開いてそちらを見遣れば、玄関で剥ぎ取った俺の衣服を手にしていた。 白濁を浴びたそれらはどうせ玄関に放置されるのだろう、俺が手にする頃には染みになっていてもう使い物にならないなと思っていたのだけど、こいつにしては珍しく始末をしてくれるのか。 そう思ったけれど俺の予想とは違い、何かを探しているようだった。あちこちポケットに手を突っ込んでは首を傾げている。 どうしたと問いかけると、アメリカは小さく、あったと呟いた。そうしてアメリカの手の内に収まったモノを見て、こいつが何を探していたのかを認識して、ざっと血の気が引いた。 「イギリス」 俺の方を向いてにこりと笑う。明るい声で名を呼ぶ。だけどその表情が作り物だと、俺はもう知っている。 「ダメだ、アメリカ」 首を振って返せと手を差し出すけれど、アメリカは笑みを深めて一歩下がる。先程の行為に疲れた身体に鞭打って身を起こすけれど、俺の手が僅かに届かない場所で、アメリカは手に持つ物を掲げてみせた。 薄闇の中、窓の外からの朧な月光を受けてぼんやりと輪郭を浮かび上がらせるのは、革製のパスケース。年代物のそれは俺の愛用品の一つだ。常に持ち歩き大切に使い続けてきただけあって、落ち着いた艶を放ち柔らかく手に馴染む。 アメリカは二つ折りのパスケースを開いて、無骨な指で中を探り始めた。 「やめろ」 無理な体勢でのセックスを強要された身体は思うように動かなくて、床に足をつけたものの力が入らず、ベッドから転がり落ちてしまった。痛みに呻き、でも這ってでも行ってあのパスケースを奪い返さなければと顔を上げれば、アメリカは静かな表情で俺を見下ろしていた。その手には小さく折り畳まれた一片の紙切れ。 「やめろ、見るな」 喉から絞り出した声は震えていて、それがアメリカの目当ての物であることを図らずも証明してしまう。ゆっくりと指が動いて紙片が開かれる。やめてくれと足にしがみついて請い願うけれど、アメリカは駄々っ子を宥めるような視線を俺にくれるだけ。また指が動く。かさっと乾いた音が部屋に響く。俺の心をアメリカが暴いていく。 「嫌だ、見るな、嫌だ」 「・・・・・・やっぱりね」 低い声でアメリカがごちるように呟く。視線を一枚の紙片に落としたまま、くすっと微かに微笑んだ。俺は蹲ったまま、ただそれを呆然と見ていた。 「古臭い君のことだから、パスケースに入れてるんじゃないかって思ったんだ。なかなか可愛らしいことするじゃないか。・・・これ、フランスだよね」 ぺらっと俺の目の前に突き付けられたのは一枚の写真。古びて黄ばんだそれは折り畳んだ痕がついて皺くちゃだけど、被写体の顔くらいは判別できる。見間違う筈がない、アメリカの言う通り、そこに写っているのは少し前のフランスだ。 いつだったか酒の席で悪ふざけに写真を撮った。にやついた赤ら顔で馬鹿げたポーズを取っている変態の姿を、翌日素面のあいつに見せて笑ってやろうと思ったんだ。けどその後仕事が忙しくなりタイミングを逸してそのままになった。 別に、捨てても良かった。あほなあいつを笑うネタなどゴロゴロ転がっている。もっとひどい格好をしている時だってある。鮮度の悪いネタなど捨ててしまうに限る。でも、結局俺は捨てなかった。恥ずかしさに茹だりながら、「いつかあいつに見せて笑ってやる」と言い訳して、幾重にも折り畳んだ写真をパスケースに差し入れた。・・・そんなことを俺は何度も繰り返してきた。 写真なんて便利なものがない時代には、フランスが戯れに画家に描かせたスケッチをこっそり入手して持ち歩いた。それより前はあいつがくれたハンカチだった。どうしようもなく激しく遣り合った時代には敵国の物を持っていられなくて、代わりに瑠璃色の瞳に似た石を身につけた。 狭い欧州は侵略と報復の繰り返しで、国である俺が私情を挟む訳にはいかなかった。俺の想いは誰にも知られてはいけない、一生隠し通さなければならない。だから想いが溢れ出てしまわないように、あいつに繋がるモノで誤魔化すしかなかったんだ――そんな、言い訳をしながら。 本当はただ、愛されないことが苦しかった。 あいつにとって俺はただの隣国でしかないから。 醜い俺の独り善がりな心。それをアメリカは子供のような無邪気さで、容赦なく暴いた。 「・・・・・・っ」 脱力してぺたんと床に座り込んだ俺に合わせて、アメリカが傍に膝をつく。顔を覗き込まれたから背けた。これ以上何も知られたくなかった。放っておいて欲しかった。 「彼のことが好きなのかい?」 それなのにアメリカは直接的な言葉で追い打ちを掛けるように尋ねてくる。 「・・・好きじゃねぇよ」 「嘘つき、好きなくせに」 「違う!んな訳ねぇだろ、あんな髭面の変態野郎、反吐が出る」 「じゃあなんでこんな時間に会いに行こうとしてたの、どうしてパスケースに彼の写真を入れてるの」 「うっせーな、俺の勝手だろ・・・」 「好きなんだろう?」 「違うっつってんだろ!なんだよお前、マジうぜぇ」 「好きだから、助けたかったんだろう?俺に抱かれてまで」 「・・・・・・っ、関係、ない」 しつこく食い下がるアメリカに嫌気が差して、会話を終わらせようと身を捩る。ベッドの端に顔を埋めて目を閉じれば、アメリカはつまらなそうに、ふぅんと呟いた。 「相変わらず頑固なんだから。・・・でも、ならいいよね」 呆れたような声に苛立ちを募らせたその時、ピリッと甲高い音が聞こえた。 「・・・あ?」 今、アメリカは何をした?何が「いいよね」なのか。 振り返ればアメリカは何かを両手に持っていて・・・それを真っ二つに引き裂いた。誰かの悲鳴のような音が響く。再度、アメリカが腕を振るう。また劈く悲鳴が聞こえる。 「お前、何を・・・」 無意識のまま伸ばした手をアメリカは払い除け、そうして奴は手の中のモノを後ろに放り投げた。薄闇の中、はらはらと白い花弁が散っていく。 千々に引き裂かれたモノ――それはフランスの写真。俺が胸のうちに仕舞って大切にしてきた想い。あいつの代わりに俺の傍にいてくれた、だから俺にとってはあいつそのものだ。そのフランスが無残にもバラバラにされて床に捨てられた。 ぷつん、と何かが弾けた。 「うぁ、あ、あぁ・・・」 「・・・要らないだろう?あんな写真」 意味を持たない音の欠片が喉から溢れていく。ただ呆然と床に散らばる紙の切れ端を眺めて身を震わせる俺に、アメリカは更に冷たい言葉を吐く。要らない?――そんな訳、ない。 「あぁ、や、あ、あ」 「捨ててしまえばいい」 そんなことできない、俺にとっては大切な宝物なんだ。駆け寄って拾い上げたいのにアメリカが邪魔をする。大きな身体を押し退けようとすれば、逆に強い力で抱き竦められた。 「やだ、嫌だ、やだ」 「イギリス」 「やだ、やっ・・・ん、んん・・・っ」 混乱している俺の唇をやわらかなモノが塞ぐ。すぐにぬるついた粘膜が侵入してきて舌を捕らえられた。乱暴に吸われ絡められて息ができない。熱い吐息が唾液と共に注ぎ込まれる。俺じゃない、他人の匂い、とてつもなく甘くてくらくらする。 水の膜が張って滲む視界に広がるのは、冴え渡る空の色。俺がずっと見つめ続けてきた海の底のような瑠璃色ではない。 キスされている――フランスの前で。 そう思ったら、涙が溢れた。 「・・・イギリス」 ぽつぽつと泡が弾けるように、思考が浮上しては消えていく。頭に靄がかかったようにぼんやりしてはっきりしない。近くで、それとも遠くで、俺の名を呼ぶ声がする。低く心地良い声は愛に満ちていて俺の心を揺らす。頬を撫ぜる手が温かく懐かしくて、ごく自然に摺り寄せた。 「ねぇ、・・・フランスのことが好きかい?」 穏やかな声が尋ねてくる。フランス、その名を口にすればそれだけで胸が締め付けられた。愛しさと切なさが相まって、それでも俺は幸せに浸る。夢現では俺の心の扉は開いたままで、胸の奥に仕舞い込んでいる想いは簡単に飛び出して言葉になった。 「好き」 「・・・そう」 声は一言漏らすと黙ってしまった。そのまま訪れた沈黙はゆらゆらと俺を眠りへと誘う。すべてが闇に包まれようとした時、また声が聞こえた。なんとか意識を保とうと努めるけれど、今度は少し震えていて聞き取りにくかった。 「・・・いいよ、おしまいにしてあげる。解放してあげる・・・君は、自由だ」 「・・・・・・?」 「だから、ねぇイギリス・・・わらっておくれよ・・・」 ぽたりと、温かな雫が降ってきた。額に祝福のキスを戴いて・・・俺の意識はすとんと落ちていった。 ××× 何やってんだあの馬鹿。 壁に掛けてある時計を幾度となく仰ぎ見るけれど、時は無為に過ぎていくばかり。手元のスマフォに視線を落としても着信どころかメールすらない。いつもならとっくに押し掛けて来ては勝手にリビングで寛いで、俺の手料理を文句言いながら嬉しそうに頬張って、適当な世間話をしながら一杯やってる頃なのに。 どこほっつき歩いてるんだ、遅れるなら連絡くらいしろ。いくら急な仕事が入ったとしても短いメールなら打てるだろう。せめて来るのか来ないのかをはっきりして欲しい。あのじめじめ鬱陶しいエセ紳士サマが来ないとわかれば、俺だって夕食にありついてさっさと明日の仕事に備えて寝ちまうのに。 こういう時、普段からアポなしで来るのを許していたのが痛い。来なかったことを責めても約束してた訳じゃないとか抜かすからね、あの可愛くない眉毛は! せっかくいい牛テールが手に入ったから、昨日から丹念に処理してゆっくりじっくり煮込んで絶品の赤ワイン煮込みを作ってやったのに。トロトロでジューシーで腰を抜かすこと間違いなし、俺の料理の腕に感謝したくなるに違いないのに!あの貧相な身体に栄養つけてやろうというお兄さんのやさしさを無碍にするなんてひどい!ソースだってこんなに美味しいのにもったいない、後で後悔して泣いても知らないんだから!! キリキリとナプキンを噛んで悶絶していたら、ピリリ、とスマフォが着信を知らせた。 「イギリス?お前今何処にいるの、もっと早く連絡しなさいよ、お兄さんずっと待っててお腹ぺっこぺこよ?せっかくお前の大好物の赤ワイン煮込み作ってやったってのに、こんな仕打ちしてくれるなら食べさせてあげないからね!?」 慌てて手に取ったスマフォの画面には世界で一番長ったらしい国名が表示されていた。即座に応答して怒鳴りつければ、いつものように筋の通らない文句を言い返してくると思ったのに、何故か黙ったまま。言い訳も誤魔化しも、当然のことながら謝罪もなく、何も言わないイギリスにイラッとして、聞いてるのかとキツイ口調で問い質せば、ようやく溜息混じりに聞いてるよと応じた。 ――イギリスではない、別人の声で。 「・・・・・・?」 スマフォの表示を見返しても、間違いなく掛けてきた端末はイギリスの物だ。グレートブリテン及び北アイルランド連合王国。だけど今の声は、いつもなら数時間前に逢瀬を終えて今頃大西洋を渡る機上の人であるはずの・・・あいつの、イギリスの恋人。 「アメリカ・・・?」 やばい、と思った。さっき俺が口走った内容は、まるで俺とイギリスが夕食の約束をしていたかのように聞こえる。自分が帰ったその夜に恋人が別の男と食事をしていた――そんなこと、知られたらマズイに決まってる。たとえやましい関係ではなく、単なる腐れ縁の色気のない食事であっても、だ。 アメリカの嫉妬深さは身を持って良ぉぉぉく知っている。俺達の些細なやり取りですら背筋が凍るような視線で睨んでくるのだから。自分が帰国した後、毎週俺達が会っていたと知れば・・・身の危険しか感じない。 「え、あ、アメリカ!?ちょ、さっきの冗談だから!なんでもない、なんでもないからね!?えぇと、な、なんでお前が坊ちゃんの携帯から掛けてきてんのかなぁ、なんて・・・」 『・・・君達ときたら、本っ当に仲良しだよね』 必死に誤魔化そうとすれば、地獄の底から這い出て来たかのようなおどろおどろしい声が耳に届いて、思わずひぃっとスマフォを放り投げてしまった。ラグに落ちたスマフォのスピーカーから毒々しいオーラが漏れ出ている。しゅぉぉぉぉって!何これ超怖い!! 「ちょ、待って、信じて!お兄さん何もしてない!やましいことなぁんにもしてないよ!?眉毛に手なんか出してないし夜這いかけてないし、いつも飯食って寝てるだけだから!もちろん別の部屋でね!?」 怨念に包まれたスマフォを持つのも怖くて、ぶるぶる震える指でぽちっとスピーカーフォンに切り替えると、なんとか誤解を解こうと説得を試みる。けれど、独占欲の塊のようなお子様が耳を貸してくれるはずもなく。 『いつも、ね』 アメリカの声音が更に低くなった。 俺のバカバカバカ!余計なこと言ってこれ以上怒らせてどうすんの!いつもじゃねぇよ、偶にだよ!偶然珍しく数百年振りってくらい久しぶりにあの迷惑極まりない酒癖の悪い自称紳士サマが海峡渡って来たんですよ!そうだよ、俺が呼んだ訳じゃない、あいつが勝手に来てるだけなんだよ、お兄さん悪くないもん!むしろ被害者だもん!お前らの痴話喧嘩に巻き込まれた哀れな美青年だもん! 「お、お前がイギリス泣かせるようなことばっかするからでしょ!?あいつが大事ならもっとやさしくしてやれよ、俺に妬く暇があるならっ」 どうせこのAKYなお子様が子供扱いを嫌がったか昔話を足蹴にしたか壊滅的な料理を馬鹿にしたかで喧嘩しているのだろう。そんなのあのイギリスを恋人にする前からわかっていたことだ、それでも惚れちまったなら諦めてやれよ。俺を巻き込まないで、穏やかな週末を返して。 そう思って諭すように言えば、アメリカは唸るように呪詛を吐いた。 『・・・君が、それを言うのかい?』 凄絶な怨嗟。苦悶に満ちたその声は掠れて、それでいてはっきりと侮蔑が込められていた。 『それは俺の台詞だよ、フランス。――イギリスが大事なら、もっとやさしくしてあげなよ、俺に妬く暇があるならね』 「・・・どういう意味だ?」 耳に届いた言葉の何かが引っ掛かって、胸をチリっと灼いた。 『君自身のことだ、わかるだろう?その無駄に高いプライドで誤魔化すのを止めればね』 「なんのことかわかんねぇな」 『ははっ、君達ときたらまったくそっくりだね。頑固で意地っ張りで喧嘩っ早くて・・・その上、』 「・・・・・・?」 まったくなんだってんだ。核心を敢えて避けるような物言いに、通話を切ってしまいたいくらいに気分が悪い。けれどそうすることで変な誤解を招くことも憚られておとなしく聞いていれば、アメリカは途中で言葉を切って黙り込んでしまった。 「おい、アメリカ?」 『・・・じゃあ、教えてあげるよ。俺がイギリスにキスをした時、彼の腰を抱き寄せた時、君がどんな顔をしていたのか』 堪らずに声を掛けると、何かを吹っ切るような作り物の明るい声で、アメリカは言った。 つうか話の繋がりがさっぱりわからない。キス?何の話だよ。いつだったか会議の前にイギリスと打ち合わせをしていたらこいつがやってきて、いきなり俺の目の前で熱烈なキスをかましたことがあったっけ。お熱い二人の様子に口笛を吹いてからかってやったら、イギリスは白目剥いちまったな。あれのことか?それがどうした。 『いつもイギリスのことなんかなんとも思ってないなんて言ってる癖にさ、君ってばあの時』 「・・・・・・」 『羨ましい、て顔して見ていたんだよ』 「・・・・・・お前の目は節穴か」 んな訳ねぇだろ。深々と溜息を漏らして項垂れる。 俺はあの時これから会議って時に良くもまぁ国同士でいちゃつけるなと呆れたんだ。米英間の蜜月ぶりは相当だとしても、議題によっては利害を争う立場だってのに。 でもそうか、あれは俺に対する牽制だったんだな、俺の反応を知る為の。けど判定するのが恋に狂ってるお前じゃ意味ねぇだろ。誰が羨ましい、だ。そんな顔、俺がするはずない。 「あのなぁ・・・お前はイギリスの恋人なんだろ?お付き合いしてるんでしょうが。なら堂々としてろよ。周りがどうであろうとあいつが惚れてんのはお前なの。だからいい加減変な勘繰りは止せ」 苛立ち紛れにがしがしと頭を掻き毟りながら言い聞かせる。 まったくなんでそんなに俺を気にするんだ。独占欲の塊にしても限度があるだろう。俺の気持ちがどうであっても、イギリスがアメリカに惚れてるならそれで済む話じゃないのか。二人で馬鹿みたいにラブラブいちゃいちゃしてればいいだろう。俺は関係ない。 そう、思ったのに。 『恋人?――違うよ』 「あ?」 『彼は俺と契約しただけさ。俺のことが好きな訳じゃない、ただ、お金が欲しかっただけ』 「は、・・・何、」 『君の為にね』 「・・・・・・俺?」 予想外のアメリカの言葉に頭が軽く混乱してしまった。だって恋人じゃないって、好きじゃない、違うって。契約?なんだそれ。 じゃあこいつらの関係は?週末になれば一緒に過ごしてデートを愉しんで、会議があれば仕事だろうが部屋を共にして。そもそも休憩時間に空き部屋に連れ立って入って行くのを見たこともある。俺に見せつける為じゃなくキスしてんのだって。 なんつーかマジで愛し合ってんのな、でもちょっと時と場所くらいは選ぼうよ、なんて呆れつつ微笑ましく眺めていたのに。 恋人じゃない。じゃあ、どうして。 言葉を失った俺の代わりにアメリカがくつりと笑みを零した。お前そんな嗤い方できたのかと、ぞっとする程に昏い笑み。何が可笑しいのか、ひとしきりくつくつと哂うと、先程までのだんまりが嘘のようにべらべらと捲し立て始めた。興奮して上擦った声からは狂気すら覚える。そうしてアメリカは、すべてを明るみにした。 可哀想に、イギリス、君の為に身体を売ったのに。君が死にそうだから助けてくれって。だから俺のモノになるならいいよって言ったら、本当にヤらせてくれたんだ。 好きでもない俺に抱かれて無茶苦茶に揺さぶられて、怯えて震えて泣いてるのにすっごくえっちな身体でさ、腰振ってあんあん喘ぐし俺のを締め付けて離さないし。トロットロに蕩けてぐずぐずになって、慣れたら後ろだけでイっちゃうんだ。ほんと淫乱だよね。 そんな関係なのに君は仲良くやれよ、なんて応援して後は知らんふりでさ。莫迦なイギリス、何の見返りもないのに、フランスは何もしてくれないのに、自分だけボロボロになって。なのに、君が元気になって笑っているのを幸せそうに見ているんだ。俺のことなんか見向きもしないで。 なんで俺のモノにならないのかな、さっさと全部俺に委ねて堕ちてしまえば楽になれるのにね。 「・・・なんだよそれ」 あまりにショッキングな内容に声が震えた。俺が死にそうだった、てのは恐らく先達ての金融危機のことだろうか。確かにあの時俺はヤバかった。米国の基金が欧州を支えてくれなければ俺だけじゃなく幾つかの国が消えていたかもしれない。だから米国に、アメリカの助けに感謝していた。 まさか、その為にイギリスが身体を売っていたなんて。そんな要求をこいつがしていたなんて、信じられなかった。 『君なんか、斃れてしまえば良かったのに』 「・・・っ、お前ねぇ・・・っ」 冷淡に吐き捨てられた言葉にぞっとする。アメリカが本気でそう思っていると、わかったから。 『今日、イギリスはそっちに行かないよ。もう疲れて眠ってしまったからね』 その言葉に心がざわつく。 週末の度にアメリカが帰った後俺の処に来ていたイギリス。なんで日曜の夜にわざわざ来るのかと訝しんでいたけれど、少しでもアメリカと過ごした家を離れたいとの切羽詰まった思いからの行動だとしたら。その僅かな逃避すら許されず、逆に裏切り行為と見咎められたのであれば、奴は一体どんな目に遭ったのか。 想像して、心拍数が一気に跳ね上がった。 「・・・あいつに何した」 『いつものことさ。セックスを要求しただけだよ』 「・・・っ、お前!」 『君に俺を責められるのかい?何も知らない、何もしようとしない、彼のことなどどうでもいいって言う、君が』 「・・・・・・っ」 アメリカに返す言葉が見つからない。けれどその分怒りが募る。俺が知らないだけで、ずっとイギリスが泣いていたと思うと胸が苦しくて堪らない。アメリカと愛し合って幸せなのだろうと思っていた、何も知らなかった、隣国で腐れ縁でずっと傍にいたのに。 どうせ意地っ張りの坊ちゃんのことだ、俺にだけは絶対にバレないように隠していたんだろう。いつだって俺に弱みなんか見せちゃくれない。だけど俺がちゃんと見ていれば察することもできた筈、アメリカとの関係が異常なものだと気付けた筈なのに。 自分を偽れば視界も曇るということか。 『ねぇ知ってた?イギリスの乳首って綺麗なピンク色してるのに、すごく敏感なんだ。こうして眠っていても、軽く弄ってあげたら・・・』 自嘲気味に臍を噛んでいたら、アメリカがとんでもないことを言い出した。イギリスの・・・てことは、傍にいるのか。行為に疲れ果てて眠る身体に、アメリカの手が這う様が目に浮かぶ。途端、俺の中を激情が駆け巡った。 「やめろ!そいつに手を出すな・・・っ」 『ははっ、寝てるのに気持ちよさそうに喘いでるんだぞ』 「止せ!やめろ、やめろ・・・!!」 イギリスに触るな、そう血を吐くような思いで叫ぶ。けれど。 『俺を止めたければ此処に来ればいい。君の本音を晒してくれるなら、やめてあげなくもないよ。あ、せっかく作った赤ワイン煮込み持っておいでね。腹ペコなんだ、食事もしないで激しい運動したからさ』 引き攣れたような声で喚く俺に勝手なことを抜かすと、アメリカは一方的に通話を切った。 「畜生、畜生、畜生・・・っ」 いつもは美しくないからと絶対口にしないスラングを吐き捨てながら、急いで身支度を整え、必要最低限の物を身に纏うと部屋を飛び出した。一呼吸の後、部屋に戻ると作り置いた料理をタッパーに詰めて、もう一度外へ出た。急げばユーロスターの最終には乗れるだろう。 赤ワイン煮込みだけじゃなく前菜のキッシュとパン、サラダ、デザートと、結局フルコース持って来た。お蔭で大荷物になってしまったけれど仕方ない。別にアメリカに言われたからじゃない、あいつが、イギリスが目を覚ました時に腹を空かせているなら、せめて俺の料理を食わせてやりたいからだ。 イギリスの心を表すかのような雨がしとどに降る街に降り立ち、タクシーで馴染みの家の玄関先に乗り付け、重くて古臭い鉄扉を押し開く。丹精込めて世話された庭を踏みゆくと、ふわりと花の香りに包まれた。 チャイムを鳴らすことで寝ているイギリスを起こすことを気にして、軽くノックをするとドアノブに手を掛けた。どうせ中でアメリカが待ち受けていることだろう。 ぎりっと奥歯を噛んで気を引き締めると、ゆっくりとドアを開いて一歩足を踏み入れた。 「・・・はずだったんだけどねぇ。いくらお兄さんが不思議国家ちゃんに慣れてるとはいえ、いきなりこれはないんじゃないの?」 周囲を見回して、思わずうんざりとばかりに溜息を漏らしてしまった。がしがしと頭を掻いて目を瞑ったまま軽く首を振る。できれば幻覚を見たのであって欲しい。けど、再び開いた目に映るのは家主の趣味にしては可愛らしい壁紙でもなく、磨き抜かれた艶めくダークブラウンの床でもなく、長年愛着を持って使い込まれた飴色の家具でもなく・・・一面、深い森を思わせる濃い緑だった。 |