Alfred


 生温い風が頬を撫でた。胸元を飾るリボンと青のコートがふわりと舞い上がる。血が滲んだような落日の色に照らされ、城のテラスに立つアーサーの薄い金の髪は赤金へと変じている。透き通るような白皙の頬も、大理石で造られた真白のテラスも朱に染まり、さながら炎に巻かれているかのようだ。床には斜陽が生み出した長い長い影が伸び、冷えて参りましたのでそろそろ中へと、慮るような声が後ろから掛かる。けれどアーサーは、遠く丘を越えた向こうへと目を凝らすのを止められなかった。
 飛び交う怒号、国土を覆い尽くす血と硝煙の臭い。風が運んできたそれらにどうしようもない苛立ちと哀しみを覚え、手摺に乗せた掌を固く握り込む。己の無力さに臍を噛み、血の玉が浮かぶ程に唇を噛み締める。
 数時間前、アーサーは今と同じ場所に立って、王旗を掲げて遠ざかっていく軍勢を為す術もなく見送った。
 どうして――どうしてこうなってしまったのだろう。アルフレッドは間違ったことをしていないのに。
 自分がキングの国印を与えた若き王。彼は賢く優しい。経験不足は如何ともし難くとも、民のか細き声をひとつひとつ丁寧に拾い上げ、彼等の為に国を統べてきた。彼がキングに立つことで豊かな暮らしを得た者も少なくないはず。なのに、何故――。
 こうしている今もあちらこちらで民が血を流し天命を全うすることなく死んでいく。
 スペードの国を南北に分かつ争い。一部の大領主が狼煙を上げたこの内乱は、今や長年汚泥のように沈殿し燻っていた民の不満を爆発させ、利権にしがみつく貴族をも巻き込んで複雑化している。最早誰が何を望み、どうすればこの不毛な争いが終わるのか、検討もつかない。
 わかるのは、自分が間違えたのだということ。あの日、アルフレッドの顔を見て、クイーンである自分と共に生きて欲しいと願ってしまった。それが彼の運命を覆してしまった。
 戦地へ赴く前、アルフレッドはアーサーに尋ねた。強い光を湛える瞳は自らがキングであると疑わない。
「ねぇアーサー、俺はスペードの国のキングだ。そうだろう?」
「あぁ、そうだ・・・」
 自分がこの男をキングにした。
「なら俺が負けるはずない。スペードのキングが司る風の力と・・・君の時計の加護があるのだから」
「・・・・・・」
 返す言葉が見つからなかった。これから王の軍を率いて戦地に立とうとするアルフレッド。彼に本当のことを言ってどうなる。もう彼を止める術はない、否、キングである彼の行動は彼の意思のみで決められるものじゃない。
 だから言う訳にはいかない。彼に、風を操る力がないことを。
「だから俺を信じて。俺は勝つよ。そして必ず君の元に帰ってくるから」
 そう力強く宣言して唇にぬくもりを押し当てられれば、何も言えなかった。ただ、嗚咽を堪えてご武運を、と触れる唇に伝えるだけ。
 彼の無事を祈る――アーサーにできることはそれがすべてだった。


   ×××


 この大陸を分かつ四つの大国。
 北のクローバー、東のハート、南のダイア、そして西のスペード。
 それぞれに統治者であるキングと補佐を務めるクイーン、実働を担うジャックが在り、不思議な力を以って民を束ねる。
 それは世界の元素とも言うべき力。
 たとえばクローバーは炎を、ハートは水を、ダイアは土を、スペードは風を司る。
 中でもキングが操る力は強大で、国土を守護し民の精神を導く代わりに、その力を過って使えば国の崩壊すら招きかねない。
 故に各国は不可侵の関係にあり、国交はほぼ無きに等しい。

 これは四つの大国のうち、スペードの国のキングとクイーンに纏わる物語。


  ×××


「アルフレッド様、何処ですか!今すぐ出ておいでなさい!」
 教師の甲高い声が広大な庭に響き渡る。どうやら今日のご機嫌は最悪らしい。それもそうか、これで授業中に逃亡したのは通算50回目。なかなかの成績だろう。彼に言えば、勉学の成績を上げなさい、と説教が始まるから言わないけど。その勉強だってきちんとやっている。答案用紙を全部埋めて、時間に余裕があるから教師の隙を突いて外へ出たんだ。つまり気分転換だ。授業に集中するには適度な休憩を取った方がいいと、昔から言うではないか。
 まぁ、そのまま戻らなかったからこうして彼は怒っているのだけど。
 灌木の茂みに身を隠すアルフレッドは軽く肩を竦めて、肩掛けにしていたポシェットからクッキーを取り出すと、一口でぱくんと頬張った。直ぐに口いっぱいに広がる甘い果実の香りに目を細め、もう一枚取り出す。チチチ、と囀りながら頭上を旋回する小鳥にも欠片をわけてやりながら、青い空を見上げた。
 ほんと、いい天気。こんな日に部屋の中で机に向かうなんて馬鹿げているんだぞ。
 眩い陽光を遮るように片手を持ち上げ、その場に横になろうとした、その時――アルフレッドを呼ぶ声が近づいて来た。
 ヤバい、こっちに向かって来ている。さっきまで見当違いの方向を探していたのに、なんでバレたんだろう・・・て、こんなに小鳥が集まっていたら不自然だよね!
 我に返って辺りを見回せば、アルフレッドは十羽を超す小鳥達に囲まれていた。灌木の上で、まだポシェットの中にクッキーがあるんでしょ、わけてよ、と言わんばかりに羽根をばたつかせて待っている。だけでなく、数羽の小鳥はポシェットを啄いている。今にも穴が開いて一つ残らず食べられてしまいそうだ。
 冗談じゃない、それは俺のおやつなんだぞ!
 慌ててポシェットを掴むと低い姿勢を保ったまま移動を始めた。ふと視界に入ったのは目の前に広がる大きくて薄暗い森。そこは父王から絶対に入ってはいけないと、キツく言い渡されている場所。教師もメイドも庭師も、誰もがあそこは広くて迷子になるので入ってはダメですよと言う。
 けれど、アルフレッドは9歳だ。もう迷子になんてならないという根拠のない自信に溢れ、尚且つ好奇心旺盛で悪戯が愉しい年頃。冒険に憧れる少年の衝動を、きちんとした説明なしに抑えられる訳がない。
 もしかしたらお宝が眠っているかもしれない。それともドラゴンがいるのかな!?なんだかすっごくワクワクするんだぞ!
 言い知れぬ高揚感に包まれながら、音を立てないように慎重に森の中へと身を滑り込ませた。
 突然の闖入者にうさぎ達が驚いて逃げ惑うのに、心の中でごめんねと謝りながらゆっくりと歩を進めると、徐々に入り口から差す光が遠のき、辺りは森閑として小鳥の囀りさえ聞こえなくなった。アルフレッドの背丈の何倍もありそうな木々が頭上を覆って、ぼんやりと薄暗い。陽の光の届かない森の中はひやりと冷たく静謐な空気に包まれていて、それをすうっと吸い込めば、身体の隅々まで精気が行き渡るようだった。
 程なくしてアルフレッドはこの森が普通とは違うと気付いた。静か過ぎるのだ。そして奥へ進めば進む程、得体の知れないモノに近付いているかのような畏れを覚える。このまま進んではいけない、この森から出て行かなければ、という衝動に駆られる。それに耐えて先へ進もうとしても、足が震えて遅々として進まない。
 結界、そんな言葉が脳裏を過る。
 ――戻ろう、迷子になってもいけないし。
 そう思ってふと背後を振り返れば、今来た道がまったくわからなくなっていた。薄闇の中を必死に目を凝らしても、同じような木々が連なっているばかり。生き物の姿は見えず、枝を揺らす風さえもない、時の流れに置いていかれたかのような静止した風景。そうして周りをあちらこちらと見渡すうちに方向感覚さえ失われ、とうとうアルフレッドは途方に暮れた。
 まずい、まずいんだぞ・・・迷子になってしまったかも、なんだぞ・・・。
 ドクンドクンと心臓の音がやけに響く。じっとりと冷たい汗が背を濡らす。自分を探す教師の声を求めても、アルフレッドの耳には届かない。痛い程にしんと静まり返っていることが、余計に恐怖へと駆り立てる。世界はあまりに大きく、対する自分はあまりにちっぽけで無力だ。恐ろしい何かに襲われたらひとたまりもない。
 ようやくアルフレッドは、自分の行動が浅はかで愚かだったことを思い知った。後悔の念に苛まれて目に涙が浮かぶ。視界が滲んでぼやける。
 そこに、ふわりと光が翻った。
「・・・・・・え?」
 数メートル先、朧な灯りがぽうっと瞬いて消える。見間違いかと目を擦れば再び点滅する。そうして一瞬の後、森の奥へと誘うかのように無数の光が浮かび上がった。
「ヒッ・・・お、お化け・・・?」
 まさかこの森は幽霊の住処だったのかな!?嫌だな、怖い・・・なんてことは全ッ然ないけれど、早くこんなつまらない処から出たいんだぞ。いい加減休憩から戻って授業を受けないと、あの教師が可哀想だからね!
 ダラダラと冷や汗を掻きながら自分に対する言い訳を捲し立てると、アルフレッドは踵を返し、正体不明の光の反対方向へと一目散に走った。森の入口へ、いつも駆け廻って遊ぶ庭へ、ふかふかのベッドのある自分の部屋へ。安心できる場所を目指してひたすらに足を動かした。
 けれど、不意に現れたのは石造りの古びた建物だった。
「――――え?」
 慌てて足を止めたけれど、円柱の形をしたその建物との距離は既に10メートルもなく、身を隠すものは何一つなかった。それ程に唐突に現れた――曰くありげな塔。
 石積みされた外壁は苔むして処々ボロボロに崩れ、それを覆うかのようにびっしりと蔦が絡まり巻き付いている。出入り口といえば錆びれた簡素な鉄製の扉と格子が嵌った小さな窓が一つあるだけ。外観だけを見れば間違いなく廃墟だと思う。
 もしかしなくてもあの光はわざとこの塔へと俺を追い込んでいたのか。
 気付いた処でもう遅い。きっとこの塔の住人であるお化けだか幽霊だか怪物だかは、迷い込んできた幼い子どもを見つけて今頃舌なめずりでもしているに違いない。一体どんなお化けだろうか。絵本に描かれていたように、鋭い爪や牙で襲ってくるのだろうか。それとも魂を吸い取るのだろうか。魔法で操り人形にされてしまうのだろうか。
 どうしよう、自分は非力で何の武器も持たない子供だ。食べられるのは嫌だ、痛いのも嫌だ、怖い、逃げなきゃ。そう思うのに震える足は金縛りにあったかのようにぴくりとも動かない。そもそも何処へ逃げればいいのかさえわからない。
 がくがくと足が戦慄く。知らず涙が頬を伝い落ちて、地面に染みこんでいく。ぽたりぽたりと足元の草を涙が濡らす度に、仄かな光が瞬いた。アルフレッドは悲鳴を上げることもできず、ただ目の前の塔から今にも襲い来る化け物を思って小さな身体を震わせた。


 ふと、二階部分にある小さな窓から誰かが顔を覗かせるのを見た。
 一瞬お化けかと思ってゾッとしたけれど、すぐにアルフレッドはそれが自分と同じ人間の子供だと気付いた。冷静に考えればこんな森の奥深くの塔に子供がいるなんておかしいのだけど、極度の緊張状態にあったアルフレッドは、自分に似た年格好の子供だと知って安堵してしまった。心の緩みは身体の強張りも解し、ぽろりと涙が一滴溢れると同時にあらん限りの声で泣き叫んだ。
「う、うわああああああんっ!!」
 その声に窓の向こうにいる子供が驚く。びくりと肩を震わせて瞳を見開いた。窓から離れてしまったのか姿が見えなくなって、アルフレッドは更に混乱して泣いた。声を張り上げてわんわんと泣き続けていると、コンコン、と扉を叩く音が聞こえた。思わず飛び跳ねて何事かと扉を凝視する。しばらくしてまたコンコン、と硬質な音が響く。塔の内側から誰かが扉を叩いている。それはお化けかもしれないけれど、二階の窓から自分を見下ろしていた子供かもしれない。
 逡巡しながらもしゃくり上げながらアルフレッドは扉の前に立ち、同じように軽くノックした。さっきの子が出て来てくれたらいい、そうしたら帰り道を教えてもらえるかもしれない。微かな希望を抱いて待っていると、突然扉の横の壁の石が一つ、ずりずりと擦れる音をたてながら内側へと消えていった。ぽっかりと空いた隙間に、代わりに一本の鍵が置かれる。
「・・・この扉、外からしか開けられないんだ」
 そう、罰が悪そうに告げる声は思ったよりも低かった。
 自分と同じ年頃だと思ったけれど、声変わりが済んでいるのならもう少し年上なのかもしれない。それに、外からしか開けられない?普通は内側から鍵を掛けるものじゃないのか?これじゃまるで、彼が出られないようにしているみたいだ。
 薄暗い森の奥深くの塔、外から掛けられた鍵、窓には鉄格子。彼は何処からか攫われて来て此処に閉じ込められているのだろうか。
 石壁の隙間に置かれた鍵を手に取ると、差込口に差し込んで解錠する。ゆっくりとドアノブを回しながら扉を開けば――そこには、穏やかな笑みを湛えた少年が立っていた。


 アーサーと名乗った少年は不思議な雰囲気を纏っていた。
 ふくよかなアルフレッドに比べればひょろりと頼りなげな細い肢体で、年格好からアルフレッドより二つか三つくらい年長の子供。その癖やけにおとなびた表情をして、穏やかな微笑みに、ふと淡雪のように消えてしまいそうな儚さが混ざる。仕草もやけに洗練されていて、纏う衣服はみすぼらしくあちこち繕いの跡があるのに、父王やクイーンを彷彿とさせる。上流階級の教育を受けて来たのかと思うけれど、彼曰く、この塔に物心ついた頃から一人きりで暮らしているらしい。
 外部との接触は月に一度世話をしてくれる者が食糧を運び込む時だけ。外の世界の知識はすべて書物から得たもののみ。何もかも自分でやらなきゃいけなかったから、必死に学んで経験を積んできた、変な処があっても気にしないでくれると助かる、などと彼は笑って言うけれど、きっとアルフレッドには想像もつかないような苦労をしてきたのだろう。
 すらりと姿勢よく伸びた背に、彼は一体何を負って此処にいるのだろうか。
 先程彼が言ったのが本当なら、外に出ることができない――つまり、幽閉されている。物心ついた時からならば、彼自身が何か悪いことをした訳じゃないのだろう。そもそもアーサーからは悪意のようなものを感じない。むしろ世俗を知らないからか、心が無垢で綺麗すぎる気がする。悪い奴が来たらコロッと騙されてしまいそうだ。
 心だけじゃない、男子に形容するのはおかしいと思うけれど、アーサーは綺麗な人だと思う。
 陽の光を浴びることのない肌は雪のように真っ白で透き通っていて、あちこち跳ねている髪の色もアルフレッドのような麦穂色ではなく薄い金だ。それと同色の立派過ぎる眉の下には長い睫毛に縁取られた翠玉。燭台の灯りを受けてキラキラと煌くその若葉色の瞳に見つめられると、どうしてだか胸がドキドキと高鳴る。すべてを見透かされているようで落ち着かない。
 正視できなくて俯くアルフレッドの頭を、アーサーの骨ばった手がそよ風のように軽く撫ぜた。


「ほら、ハーブティー淹れてやったから飲めよ。落ち着くぞ」
 にこりと微笑みながら差し出されたカップを両手に挟んで受け取ると、ふわりとやわらかな湯気と香りが鼻腔を擽った。こくんと一口含めば温かな液体がじんわりと身体の内側に浸透していく。
 気まずくて俯いたままのアルフレッドを、アーサーは優しい眼差しで見守る。
「随分奥まで入り込んじまったんだな、怖かっただろ」
「べ、別に俺は迷子になったわけじゃないんだぞ!あくまで森を探検していただけで」
「そうだな、此処まで来るのは大変だったな」
「だ、だから俺は別に・・・っ」
 真っ赤になって言い募るアルフレッドに、アーサーはにこにこ微笑みかけるだけ。完璧に駄々っ子をあやす大人の顔をしている。
 自分も子供のくせに!
 子供扱いが悔しく恥ずかしくて歯噛みするけれど、それも仕方ない。アルフレッドは扉を開いてアーサーの顔を見た途端、ほっとして恐怖と不安に張り詰めていた感情を爆発させた。しがみついてわんわん泣き続けるアルフレッドを、アーサーは優しく抱き締めて宥め、椅子に座らせても服の裾を離そうとしない小さな手を撫でて大丈夫と繰り返した。
 今更怖くなかった、と言ったところで説得力がない。
「で、お前の家はどの辺りなんだ?森の近くの街か?」
 皿に盛った何か・・・禍々しく黒い物体をさりげなく差し出すと、アーサーは自分も湯気がふわりと漂うカップを手にした。
「城だよ。俺はこの国の王子だから・・・ねぇアーサー、この真っ黒いの何?」
「・・・王子?」
「うん、俺のことも知らないのかい?アルフレッド王子って・・・う、ナニコレ・・・ものすごーく不味いんだぞ!!」
 きょとんと目を丸くするアーサーに告げながら黒い物体を少しだけ齧ってみると、途端に口いっぱいに広がる苦味。ごりっと砕けたそれは舌の上でざらついているのに、物体の中からはどろりとエグい粘液が溶け出してくる。ぶわっと総毛立って思わず黒いそれをテーブルの上に放り出すと、カップの中のハーブティーを一気に飲み干した。
 ぜえはあと荒い息を吐くアルフレッドに、アーサーはまたお茶を淹れながら、こてんと首を傾げる。
「いや、王子が生まれたとは聞いてるけど、・・・苦いか?おかしいな、砂糖も蜂蜜もたっぷり混ぜ込んだんだけどな」
「とてもそうは思えないんだぞ!これ、ほんと何なんだいっ」
「スコーンて菓子だ。本に書いてあるの見て作ったんだ。うまくできたと思ったんだけどな・・・不味いなら無理に食わなくていいぞ」
 そう言ってアーサーは皿をすいっと下げた。けれど見るからに悄然と肩を落としてこの上なく悲しそうな顔をするから。
「ま、不味いとは言ってないんだぞ!うん、食べられないこともないね!!」
 つい心にもないことを口走ってアーサーから皿を取り返すと、黒い塊を齧るどころか一口に頬張ってしまった。
 がりっごりっどろぉ・・・。再び生命の危機としか思えない味が口いっぱいに広がり、冷や汗がダラダラと流れて止まらない。胃がそんなも正体不明の物体を入れてくれるなと拒否している。指先がビクンビクンッて震え出して本気でヤバい。けれどそれを宥めすかしてごっくんと飲み込んで、がぶがぶとハーブティーを飲み干せば。
「そんなに慌てなくてもたくさんあるぞ」
 なんて、照れくさそうにはみかみながら、アーサーは眩い笑顔を見せた。
 ・・・アーサーがキラキラしてる。頭上に天使の輪っかが見える気がする。礼拝堂の絵画みたいだ。すごく、綺麗なんだぞ・・・。
 アルフレッドがぼうっと見惚れていると、アーサーの細い指が近づいてきて唇の端をするりと撫ぜた。突然のことに心臓がドキンと跳ねる。
「な、何・・・っ!?」
「粉が付いてたんだよ、慌てて食べるから」
 思わず仰け反るとアーサーはくすりと笑って指先をぺろりと舐めた。赤い舌が白い歯の隙間に垣間見えた。自分の唇の触れていたものがアーサーの身の内に取り込まれていく。ただそれだけのことなのに、どうしてかアルフレッドの身体はかっかと火照って、胸は早鐘を打つようにドキドキしている。
 居た堪れなくて俯くアルフレッドの為に、アーサーは再びハーブティーをカップに注いだ。暗にスコーンとやらを勧めている。ちらりと見上げればにこりと微笑み返してくれた。
 またあの味を・・・と、思わなくもないけれど。アーサーの笑顔を見れるなら俺は死んでも後悔しない、なんて呆けたことを考えながら、アルフレッドはゆっくりと皿に盛られた黒い物体に手を伸ばした。


「もう暗いから今日は泊まっていくといい。城には連絡しとくから」
 アーサーはアルフレッドに此処で待てと言い置くと、二階に上がって行った。
 その言葉に、やはり彼は城内の人間に繋がりがあるのだと感じる。
 この塔を囲う森は城塞の中にあり、スペードのキングが所有している。城の外の人間が容易に立ち入れない場所であり、おまけに森には結界が張られている。アーサーの品の良い立ち居振る舞いや、世話をする付き人がいることを鑑みると、彼は王族か、それに近い存在なのだと思う。もしかすると自分と同じ父王の子なのかもしれない。
 好色な父は正妻であるクイーンとの間には子を作らず、代わりに多くの女性を側妻にして子どもを産ませている。アーサーの母親は何か不都合があって彼を隠さなければならなかったのかもしれない。
だとしたら。
 アーサーはお兄ちゃん、なのかも。それってすごく嬉しいんだぞ。
 ふにゃりと頬が緩む。胸がドキドキして期待に震える。不味い筈のスコーンだって美味しく感じてしまう。・・・それは単に味に慣れただけかもしれないけど。
 だって嬉しい。あんなに綺麗で優しい人が兄だとしたら、自分と繋がりある存在だとしたら。
 アルフレッドには既に年離れた兄が三人もいるけれど、彼等は母親違いの為か、アルフレッドに対して冷たい。人の目があるので暴力を振るうことはないけれど、アルフレッドのお気に入りの物を隠したり、わざと傷つく物言いを選んだりする。可愛がっていた小鳥が死んでいたのも、大切に育てていた花が踏み躙られていたのも、間違いなく彼等の仕業だ。幼いアルフレッドを泣かせることが、彼等にとっては愉しいゲームなのだ。そんな彼等のことがアルフレッドも大嫌いだった。当たり前だ。
 だからアーサーが兄だといいなと思う。もし本当にそうだとしたら、父王に頼んでこんな塔から出して貰おう。王子として城で一緒に暮らすんだ。そうしたらあの笑顔をずっと見ていられる。
「アルフレッド、城の者に許しを得たからもう大丈夫だ。明朝迎えが来る」
 靴音も立てずに静かに降りてきたアーサーが言う。わかったと頷くと、すぐに湯浴みの支度をすると言って離れて行こうとする彼に、慌てて声を掛けて引き止めた。
 どうした?と振り返るアーサーに尋ねる声は、期待と興奮に震えて上擦ったものだった。
「アーサーも、王子なのかい?」
 子供のはっきりした物言いに、翠の瞳が瞠目する。驚いて動きを止めたアーサーを、アルフレッドは誤魔化しを許さないとばかりに真っ直ぐに見つめ続ける。揺るがぬ一対の青が捉えて離さない。アーサーの喉がこくんと上下した。
 その反応に、アルフレッドは確信した。
「王子、なんだね。俺と同じ、父王の子なんだ」
「俺は・・・」
「だったらなんでこんな処にいるんだい、一緒に城に戻ったらいいじゃないか!何か理由があるなら俺が父王に頼んであげるんだぞ!」
 たじろぐアーサーの言葉を待たずに、アルフレッドは満面の笑みで飛びついた。ぎゅうぎゅうと細身の彼に抱きついて全身で喜びを表す。
 やっぱり兄さんだ、アーサーは俺の兄さんなんだ!
 嬉しくて嬉しくて堪らない。彼はあの冷たい兄達とは違う、親子の情が希薄な父とも違う。アーサーは優しい微笑みを自分に向けてくれる人だ。温かな手で抱き締めてくれる人だ。城で暮らすようになれば一緒に食事して、遊んでお話してくれるに違いない。一つのベッドで温もりを分かちながら眠ることができる。そうしたら寂しいと泣く夜が減るかもしれない。
 アルフレッドには既に母がいない。けれどまだ幼い心は肉親の情を求めていて、だからアーサーの掌が与える温もりは、彼が思う以上にアルフレッドの孤独を癒してくれた。
 これから共に過ごす日々を想像するだけでワクワクする。彼もこんな塔から出られてほっとするに違いない。アルフレッドは喜びに満ちた顔で見上げて、ぎくっとした。
 アーサーが醒めた目で見下ろしていたからだ。
「・・・アーサー?」
 震える唇が彼の名を呼ぶ。背に回していた手をそろりと引く。我知らず後退って生まれた距離は僅かなのに、突然冷たい風が二人の間を吹き抜けたような気がした。穏やかな陽溜まりのような温もりが一瞬のうちに消えてしまった。
 もう一度、アーサーと呼ぶ。兄であろう彼を求めて再び手を伸ばしたかった。だけど身体が竦んで動かない。
 顔を強張らせて固まってしまったアルフレッドに、冷たい表情を浮かべたアーサーは一言、違うと述べた。
 王子ではない、・・・兄ではないと。
「ち、違わないんだぞ!」
「違う」
「そんな、だって君は、」
 反射的に言い返した。けれど当のアーサーはあっさり否定する。子供らしい単純さで思い込んでしまったアルフレッドに確証などない。口篭っているとアーサーは意地悪く眉を上げて視線で続きを促した。
 唐突に表情を変えてしまったアーサーに、アルフレッドは戸惑いを隠せない。冷たい面をしたアーサーは心の中をまったく見せてくれない。あれこれ考えて、アルフレッドは素直に理由を口にした。
「だって・・・君の所作は洗練されているし、城と連絡が取れるって言うから」
 そう言うと、アーサーは軽く鼻を鳴らした。
「あぁ、王子に見える程うまくやれてるか。本で読んだだけだが王子様にそう言って貰えると自信が持てるな。俺はこの通り、城の連中に囚えられている。だから毎晩ちゃんと此処にいるって報告する義務があるんだ」
「なんで囚えられてるの。アーサーは悪者に見えないんだぞ」
「それはお前が子供だからだ」
「子供でも俺の人を見る目は確かなんだぞ!大体アーサーだって子供じゃないか!悪いことなんかできっこない!」
「根拠のない自信を抱く処が子供なんだ。城の連中しか知らないお前に何がわかる。罪人を見たことがあるか?牢獄を見たことがあるか?子供でも腹を空かせては物を盗んで投獄されているぞ。綺麗な真綿に包まれて育った王子様は汚い世界なんか知らないだろう」
 高を括ったような言い方に、カチンと来る。
 アーサーだって見たことないくせに!
 そう思うけれど、悔しさに喉が詰まって言葉にならない。ただ顔を朱に染め、身体を戦慄かせて睨み上げることしかできない。
 悔しいのはアーサーの言うことが図星だからだ。
 アルフレッドの行動範囲は城内の狭い一部しか許されていないし、接触する人も限られている。成人している兄達は父王と共に大広間で謁見を求める民と顔を合わせているけれど、幼いアルフレッドにその機会はない。当然罪人を見たことなどある訳ない。
 王子として可愛がられ、大の大人である家臣に傅かれている。それを当たり前と思ったことはないけれど、こんな風に嘲られるとはっきり傷つく。
 ぐうと奥歯を噛み締めて屈辱に耐えるアルフレッドを、アーサーはふんと鼻を鳴らして見下ろした。綺麗な翠が今は冷たい光を放っていて、優しく抱き締めてくれた時と別人のようだ。
「迷子のお前を保護してやった俺が優しく見えるか、良い人に見えるか。お前を人質に解放を要求しているのかもしれねぇぞ」
「・・・アーサーはそんなことしない。俺が王子だって知らなかったくせに」
「演技って言葉知ってるか?」
「俺が子供だからって見縊らないでくれ、さっき君が見せた顔が演技かどうかなんて、考えなくてもわかる!君は絶対に悪い人じゃない」
 泣いてる自分をあやす手は優しかった。触れる身体は温かかった。大丈夫と繰り返す声は不安に震える心に染み入った。すべてが演技だったなんて言わせない。
 反対意見は認めないと睨め付けるアルフレッドに、アーサーはふっと肩の力を抜いて細く息を吐いた。
「お前そんなで大丈夫なのか・・・どうせちやほやされて疑うことも教えられてねぇんだろ。騙されて泣いても知らねぇぞ」
「言っとくけど俺だって呑気に生きているわけじゃない。悪意を向けられることだってあるし、命を狙われたことだってある。騙されたことだってね!莫迦な子供だと笑ってもいいよ、それでも俺はアーサーを悪い人だと思わない、信じるのは俺の勝手だろう!?」
 半ばヤケクソのように言い放つ。膨らませた頬が火照って熱い。頭の奥がじんじんと痺れて思考はぐちゃぐちゃだ。それでもアルフレッドはアーサーを見つめることを止めなかった。透き通った青空のような瞳が真摯な光を湛えてアーサーを射抜く。
「・・・・・・」
 翠の瞳が大きく見開かれた。アーサーはゆっくりと床に膝をつき、アルフレッドの震える手を取った。あっという間に氷のような冷たい視線は和らぎ、出迎えてくれた時と同じような穏やかな表情に戻る。温かな手が重ねられ、労るように優しく撫ぜる。不安に泣くアルフレッドを宥めた時と同じように。
 それはまるで喪われた母親の愛情のようで、訳がわからなくなったアルフレッドはとうとうふるりと唇を戦慄かせ、大粒の涙を零した。
 拒絶を恐れてか、アーサーに抱きつくことはなく、ただただ小さな身体を震わせてしゃくりあげる。そんな幼気なアルフレッドを、アーサーは腕を広げて包み込んだ。
「悪かった・・・お前は王子として何不自由なく暮らしているのだと・・・。そうだよな、スペードの王の血統を継ぐ以上、継承争いは避けられないよな」
 命を狙われるのがキングの座を争ってのものだと、すぐにアーサーは気付いたようだった。静かな声音に憐れむような響きが混じる。
「俺は・・・キングになんて、ならないって言ってるのに、信じてくれないんだ」
「・・・キングは選ばれた者だからな。王族のうち、クイーンから国印を与えられた者が座に就くと決まっている。ならないと言っても、お前がキングだと次のクイーンが言えばお前はならなきゃいけない」
「けど、俺になれる訳ないじゃないか・・・っ!兄上達がいるんだ、あの人達はもう立派に父王の補佐を務めてる!俺はまだ子供で、この国のことを習うだけで精一杯なんだ」
「キングは年の順で選ばれる訳じゃない、クイーンが見てキングの器だと思えばそれで決まる。それに、何も今すぐって訳じゃないだろ。未だキングもクイーンも健在だ。次のクイーンが現れる頃にはお前も立派な男になってるだろ」
 アルフレッドの背を繰り返し撫ぜながら、静かな声音でアーサーが諭す。キングになる可能性はあるのだと。
 けれどアルフレッドはふるりと首を横に振った。最近の城内の緊迫した空気を思い出し、逃げ出したくなるような恐怖と哀しみに心が真っ黒に塗り潰される。嗚咽を漏らしながらアルフレッドは、少しずつ声を紡いだ。
「・・・父王はともかく、クイーンは・・・わからない、んだぞ」
 ぴくりとアーサーの指先が震えた。そっと身体を離してアルフレッドを見上げる。信じられないとばかりに瞠目する彼に、アルフレッドは沈鬱とした表情を浮かべて首を横に振った。
「まさか・・・兆しがあるのか」
「ずっと熱が高くて床に伏してるって。クイーンがお亡くなりになれば父王の代も終わる。だから兄上達は次のクイーンに選ばれようと争っているんだ」
 キングを選ぶクイーンは、自分が斃れる時にその治世も終わらせる。キングが死ぬことはないけれど、クイーンを喪ったキングからは国を治める魔力が消えてしまうのだ。力を失えば民意は歪み国土は少しずつ崩壊していく。そうなる前にキングは次のクイーンを探し出し、新たに誕生するキングに座を譲らねばならない。
 そしてこのスペードの国では、新たなキングは王族の中から指名される。幼いアルフレッドも当然含まれる。
 兄達の考えは、詰まるところ候補者は少ないに越したことはない、ということだ。
 表立っては互いの失敗を論いキングの器ではないと言い立てるのみ。アルフレッドに関して言えば、幼い、経験不足、無分別、などなど。そう言われるのは悔しいけれど、事実でもあるので仕方ないとアルフレッドは放っている。
 けれどその裏では、わかりやすく対抗馬を消し去ろうと暗躍が横行している。毒を盛り、暗殺者を仕向ける。候補が一人しかいなければ、クイーンはその一人をキングに据えるしかないからだ。
 事故に見せかけたそれは日を追う毎に過激さを増し、誰がどのような思惑で動いているのかもわからず、誰にも止めることができない。このひと月の間にも王子が一人姿を消した。彼の生死はようと知れず、だけどきっともうこの世の者ではないだろうと皆が認め、しめやかに葬儀は行われた。
 そんな醜い争いに、たった9歳のアルフレッドは巻き込まれている。幼く身を護る術の拙い彼が未だ存命しているのは、偏にその年齢では選ばれることはないだろうと、兄達が侮っているからに他ならない。ライバルの人数が絞られたなら、その時は幼い子どもの命など呆気無く奪われるだろう。
「おかしいんだぞ・・・次のキングになるかもしれない人達なのに、どうしてあんな酷いことができるのか、俺にはわからないんだぞ・・・」
「・・・そうだな。お前は辛い思いをしてきたんだな、それなのに俺を信じてくれるんだな」
「・・・っ、ひっく・・・アーサーが悪い人じゃない、なんて・・・っく、バレバレ、なんだぞ・・・」
「そうか」
 肩を震わせて涙を零すアルフレッドをアーサーはやさしく抱き締めて、そのやわらかな金の髪に頬を寄せた。


 窓の外は既に闇色に染まり、壁に設えた燭台とテーブルの上の灯りが光源となってアルフレッド達を照らしている。アーサーの背に手を回してぎゅうとしがみついているアルフレッドの耳には、じりじりと芯の燃える音だけが微かに届いた。森の奥だと言うのに動物の遠吠えすら聞こえないというのは、やはり結界が張られているからなのだろう。――アーサーが塔から出られないように。
「なぁアルフレッド、俺はこの塔から出ることはできない。けれど少しだけ国が司るのとは別な魔法が使えるんだ。だから・・・お前にお守りをあげたい。受け取ってくれるか?」
 ようやく落ち着きを見せたアルフレッドの濡れた頬をハンカチで拭うと、アーサーは内緒話でもするように耳元で囁いた。
「ま、ほう・・・?」
「そうだ。俺はその力のせいで此処に囚われているんだ。国を滅ぼす呪われた力だと言われてな」
 アルフレッドが軽く首を傾げると、アーサーは自嘲気味に笑みを浮かべた。そうして、おいでと言ってアルフレッドの手を握ると、内壁に簡単に設えてある手摺のない螺旋階段を上って行った。
 二階の部屋は狭く簡素な造りだった。剥き出しの石壁が寒々しく、床板は傷んでいるのか歩く度にギシギシと軋む。質素なベッドと机が置いてあるだけで飾り気もない。けれど、綺麗に整えられ大切に使っているのが窺えて、アーサーの性格をよく表しているなと思った。
 アーサーはアルフレッドを椅子に座らせると机の引き出しを開け、中から小さな箱を大切そうに取り出した。エナメルコーティングされて艶めく緑のその箱には宝石で彩られた純白の花が咲き、今にもふわりと飛び立ちそうな一頭の蝶が止まっている。燭台の灯りを受けて宝石は複雑な色を帯び、ゆらゆらと不規則に煌めく。細い指が蝶番をカチリと外し蓋を開けば、内側は真紅のベルベット生地が品良く張られていた。
 それはアーサーが纏う古びた衣装に似つかわしくないモノ。どちらかと言うと王家の宝物庫にありそうな豪奢な造り。
 どうして物心ついた頃からこの塔で暮らしている彼がこんなモノを。
 不審に思うアルフレッドを他所に、アーサーは箱の内側へと手を伸ばし、ベルベットに包まっていた物を慎重に取り出すと、掌に乗せてアルフレッドに見せた。
 差し出されたのはスペードの国印を象った懐中時計。繊細な金細工で縁取られたクリスタルガラスには傷も曇りもない。けれど針は一方を向いたまま止まっていて、時を刻んではいなかった。
「・・・壊れてるの?」
「いや、この時計は使役されるのを待っているんだ」
 胡乱げに時計を見つめるアルフレッドに、アーサーはにやりと笑って不思議な言葉を返す。意味がわからないと眉を顰めると、まぁ見てろと言って軽く眉間を突かれた。
 そうしてアーサーは時計を左手で捧げ持ち、その上にアルフレッドの手を導くと、厳かな仕草で右の掌をかざした。
 刹那、光が閃いた。
 キイイインと激しい耳鳴りのような音が鳴り響く。アーサーの手の間でバチバチと火花が散る。青白い炎のような光が眩くて、思わずアルフレッドは顔を背けて固く目を閉じた。
 いっそ暴力的とも言える程の光の奔流。瞼の裏さえも灼かれるような恐怖を覚え、顔を覆ってしまいたくて手を引き抜こうとしたけれど、アーサーに強く掴まれ阻まれる。仕方なく歯を食いしばって耐えていると、光は湧き起きた時と同じように唐突にふっと消えた。そして、カチ、カチ、と微かな音が聞こえた。
 アルフレッドはゆっくりと目を開き、ぼやける視界にぱちぱちと瞬きを繰り返すと軽く頭を振った。解放された手を退かして時計を見下ろせば、さっきまで微動だにしなかった針が規則正しく時を刻んでいる。驚いてあっと声をあげるアルフレッドに、アーサーはにこりと微笑み、そしてベルベットの布ごと時計をアルフレッドへ差し出した。
「アルフレッド、この時計がお前を護ってくれる。命の危機に晒された時、この時計が知らせてくれる。僅かではあるが時を止めて助けてくれる。だから肌身離さず持っているんだ」
 強い口調で言うと、怪訝そうなアルフレッドにぐいっと押し付ける。アーサーの真剣な表情に釣られ、おずおずと時計に手を伸ばすと両手で挟み込んで受け取った。ちらりと目を向けるアルフレッドに、アーサーは満足気な表情を浮かべて首肯する。
「この時計を介して俺の魔法が展開する。お前がこの時計を失くさない限り、俺の命が続く限り、お前を護り続ける。その代わり、この時計を誰にも見せるな。此処に来て俺と会ったことも誰にも話しちゃいけない。迎えに来る奴も明日には城からいなくなっている。絶対にキングに知られるな。間違っても俺を此処から出そうと頼んだりするな。わかったな?」
 肩を掴んで厳粛な面持ちで告げるアーサーに、アルフレッドも重々しくわかったと応えた。アーサーがこの塔に囚われている理由がなんとなくわかったから。
 いつだったか読んだ古い童話。
 ――はるか遠い昔、この国の王子様が、時を操る人と出会った。
 王子様はその人にひと目で恋をして、永遠の愛を誓うと夫婦の契りを交わした。
 けれど王子様は隣国の王女様に心変わりしてしまった。
 時を操る人は悲しんで、何度も時を戻して愛する王子様を取り戻そうとした。
 度重なる魔法は時空を歪め、国は天災に見舞われる。
 怒った王様は時を操る人を捕らえ、命を奪ってしまった――。
 そんな、お話。
 ただの物語だと思っていたけれど、もしかしたら本当にあったことなのかもしれない。だからアーサーはこの塔に囚われているのかも。禁断の秘術を使うことのないよう見張る為に。そしてアーサーに関わった者はきっと排斥される。情を通わせないよう、彼が時を戻そうなどと思わないように。
 だからアーサーは自分を突き放そうとした。父王に彼のことを話そうとしたから。二人が出会ったことを知れば、父王はたとえ息子だとしても国の為に殺してしまうと思ったから。だけど優しい彼は冷たい態度を続けることができなくて、代わりにお守りをくれた。継承争いに巻き込まれた自分を護ると言ってくれた。
 何も悪いことしていないのに囚われて、それでもこんなにやさしい。彼がこの国を滅ぼすなんて嘘だ。そんなことできっこない。
「ありがとうアーサー。この時計、大切にするね」
 万感の思いを込めて礼を述べれば、アーサーは花が綻ぶように笑った。


「ねぇアーサー」
「ん?どうした?」
「一緒に寝るって、あったかくて気持ちいいね」
「・・・そうだな」
 食事を取って湯浴みした後、一つしかない寝台に二人潜り込んだ。初めて知る人の温もりに笑って、ぎゅうぎゅう抱き合った。子守唄を歌い出すアーサーに、赤ちゃんじゃないんだぞ!と憤慨したけれど、彼は眠くなるまじないなんだと言って微笑んだ。その淋しげな表情に、彼もまた一人の夜に眠れず泣いているのだと思った。
 薄暗い森の奥深く、寂れた塔に一人きり。誰とも話すことなく、触れることなく、彼はどうやって日々を過ごしているのか。きっと――・・・。
 少し掠れた声が高く低くやわらかなメロディーを口ずさむ。ひそやかに流れる唄声に耳を澄まして目を閉じる。
「ねぇ、アーサー」
「・・・なんだ?」
 ふっと子守唄が途切れ、アーサーがこちらを窺う気配を感じた。けれどアルフレッドは瞳を開けることなく、穏やかな眠りに誘われながら霞む意識の中で呟いた。
「お守り、ありがとう」
「別に、俺がお前に持っていて欲しいだけだ。礼を言われるようなことじゃない」
「俺、すごく嬉しいんだぞ。お礼くらい言わせてよ」
「そうか」
「君が護ってくれるなら、俺はきっと大丈夫。だから」
 布団の中で手を滑らせる。すぐに目的の温もりを見つけ、きゅっと繋いだ。相手は少し驚いたようだけど、同じように握り返してくれた。そのことを嬉しく思いながら、アルフレッドは胸のうちを吐露する。
 幼い胸に抱いた思い。大それた願い。けれど絶対に叶えたい夢。
「俺、キングになるよ。選ばれるように努力する。キングになって、君を此処から出してあげる」
 ぴくんっと繋いだ手が震えた。
「だから、待ってて」
「アルフレッド・・・」
 かさっと布団を擦れる音が聞こえた。寝台が軋む。何かが覆い被さって影を作るのを感じた。けれど、それらを確認することなく、アルフレッドの意識はゆるゆると眠りの淵へと落ちていった。


 翌朝、迎えの者に連れられて、アルフレッドは城へと戻った。
 遠ざかっていく塔を何度も振り返った。
 二階の窓からいつまでもアーサーが見送っていた。
 いつか必ず、キングになって君を塔から解放してあげる。自由にしてあげる。
 だから待ってて、また会える日を。






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