USA


 リビングをうろうろ彷徨いながら、ちらりと時計を見る。フライトの時間が迫っている――そろそろ行かなきゃいけない。帰りたくないけど外せない会議があるので仕方ない。予定の飛行機に乗るしかない。だから、せめてこの家を出る瞬間までずっと、イギリスの傍にいて触れ合いたかった。なのに、彼は自室に閉じ篭って出て来ない。――まだ泣いているのか。
 幾度目かの溜息を吐いて身じろぎをすると、ちりっと腕の皮膚が引き攣れた。苛立って舌打ちしながらシャツの裾を捲り上げて、巻かれた包帯を取ってそこを見ると、先程よりはマシになっているものの、まだ赤く膨れている。・・・火傷、だ。
 国である自分の身体は人とは違う。国土や国勢による治療法のない病気や怪我を負う代わりに、自らの病気や怪我は程度の差はあれども自然と消えていく。だからこれも、しばらくすればきっと消えているだろう。だから俺は気にしない。大した事じゃないんだ・・・君に触れられない事に比べたら、心底どうでも良いんだ。どうせ放って置いてもすぐに治るんだから。なのに、彼は自分の過失を悔いて、泣きながら傷の手当てをして・・・それが終わると、涙を零しながら部屋に閉じ篭ってしまった。
 違うんだよイギリス、君が悪いんじゃない、事故なんだ。君が泣くことはないんだ。・・・あぁそれとも傷付いて泣いてるのかな?怒ってる?確かに俺の言い方が悪かったのは認めるよ。言っちゃいけない事を言ってしまった。でも、拒絶した訳じゃないんだ。恋人になる前に良く俺が口の端に乗せた台詞――余計な世話はしないでくれ。それが本心じゃない事くらい、今の君ならわかるだろう?・・・わからないか、彼は人の心の機微にはとんと疎いから。俺はただ、そんなことより一時でも長く彼の温もりに触れていたかったんだ。遠ざけられたくなかったんだ。――彼の傍にいたかった。
 けれど今、彼は此処にいない。こういうのを何て言うんだったっけ?本末転倒、そうそれ。正に今の俺は本末転倒だ。彼を求めて逃げられて。自分が自分で嫌になるよ。


 それは子供の頃にも一度あった事だ。彼は帰国する前になると、自分がいない間に俺が困らないようにと、あれこれ世話をしたがった。料理を作ったり掃除をしたり洗濯したり・・・そんなのは数日しかもたず、彼が来ない年単位の不在を埋めたりはしないのに。そんなことの為にあくせく動き回られるより、ソファに座って俺を抱き締めて欲しかった。絵本を読んだり絵を描いたり、一緒にいる時間を大切にしたかった。
 だから、俺の服にアイロンを掛けるイギリスに抱きついた。そんなことより遊ぼうって。驚いたイギリスが手に持つアイロンを取り落として・・・俺は火傷を負った。もうその後は見る影もない、自然と消えてしまった。国の身体のことは幼い俺なんかより余程詳しかっただろうに、それでもイギリスは青ざめて痛みに泣き叫ぶ俺の手当てをして・・・自分も泣いた。
 あれから何百年も経つのにまた同じ事が起きた。懲りない俺が悪いのだけど。


 英国での会議の後、当然のようにイギリスの家に泊まった。一晩中求め合って愛し合って・・・幸せな時間を過ごした。お互い忙しい身、またしばらく会えなくなるのがわかるから、一時も離したくなかった。彼の温もりを感じて、彼の肌を味わって、自分に染み込ませる。彼にも俺を刻み込んでおきたかった。俺を忘れてしまわないように。
 なのに彼は、俺が帰国したらその足で仕事に向かうと言ったら・・・慌ててベッドを降りて。まだ情事の痕がしっかり残っていて動くのも辛いはずなのに、俺が脱ぎ捨てて床に散らばっていた服を拾い始めた。何してるの?と問えば、よれよれじゃねぇか・・・と服を抱えて部屋を出て行ってしまった。慌てて追い掛けると。彼は俺の服にアイロンをあてていた。
「ちょっ・・・イギリス、何してるんだい」
「見りゃわかんだろ、プレスしてんだよ」
 彼は当然のことのようにさらりと言って、俺のシャツとアイロンを持つ手を細目に動かす。
「なんで」
「なんでって・・・お前、このまま仕事行くんだろ?んなよれよれの服じゃおかしいじゃねぇか」
「別に、ちょっと皺が寄ってるくらい気にしないんだぞ」
「ばか、皺のない服に身を包むのが紳士の嗜みだ」
 またそれか。
「俺は紳士じゃないから平気だよ」
「周囲に対する礼儀だろっ!とにかくアイロンしてやるから待ってろ」
「・・・そんな時間あるなら、もう一回したい」
「散々やったろ」
 さり気なく近付いて肩に手を置くけど、イギリスの返事は素気ない。
「そんな格好でいられたら、また欲しくなっちゃうよ」
 イギリスはシャツ一枚を簡単に羽織っただけの姿で椅子に腰掛けている。襟から覗くその細い首筋に指を這わせると、まだ熱の冷めない身体は過剰な位ぴくんと反応した。
「ばっ・・・止めろ!危ねぇだろうが!」
 睨みながら冷静に俺の身体を押し退けるから、カチンとくる。
「アイロンなんて余計なお節介だよ。押し付けがましい世話は要らないよ!」
 つい辛辣な言葉をぶつけてしまったら、彼も腹を立てて喚いた。
「んだよ、お前がきちんとしねぇからだろ!?ちゃんと服を脱いだらハンガーに掛けておけってんだ!」
「あの時にそんな余裕ないよ!」
 玄関でそのまま押し倒したいのを必死に堪えて、荒れ狂う衝動をなんとか捻り伏せて寝室に辿り着いたんだ。ベッドが視界の隅に入った瞬間、二人してダイブしてた。服をハンガーに掛ける余裕なんてある訳ない。
「習慣として身につけておかないからだ。服を脱ぎっぱなしにするのは昔からの悪い癖だぞ!」
 子供を躾けるような言い様にカッとなった。頭に血が上って、何も考えずにただ彼を詰る言葉を吐く。
「いつまで君は俺を子供扱いすれば気が済むんだい?君は俺のママかい?違うだろ!?君は恋人なんだ!わかったらさっさと寝室に戻るんだ!君は俺に抱かれてればいいんだよ!」
「――――っ!!」
 今思えば最低なことを言った。抱かれていれば良いだなんて・・・それじゃまるでセフレじゃないか。身体目的だと思われても仕方ない言い草。なんであんな事言ってしまったのか。自己嫌悪で吐き気がする。あの時の自分の首を絞めて黙らせてやりたい。
 彼は・・・目を見開いて呆然として。俺の言葉を飲み込むと共に怒りで唇を戦慄かせた。そして罵倒でもしようと思ったのか口を開いて・・・でも、感情が突き抜けてしまったように、何も発せず。無言で背を向けて作業を再開した。
「・・・・・・っ!」
 明らかな無視に苛立った俺が、彼の肩を掴んで強引にこちらを向かせると、ちっと舌打ち一つして。見上げるその瞳に、嫌悪の色がありありと見えて・・・俺の理性がぶちんと切れた。
 彼の顎を乱暴に取って、無理矢理口づけた。
「・・・・・・っや、だ!」
 全身を震わせて拒絶した彼が、俺を突き飛ばそうと伸ばした・・・その右手に、熱せられたアイロンがあって。それは、俺の左腕に当たってじゅっと皮膚を焼いた。


 自業自得だ、わかってる。すべて最初から最後まで俺が悪かったんだ。彼は何も悪くない。なのに、皮膚が焼ける音、焦げた臭いに彼は全身を硬直させて。はっと我に返るなり慌ててアイロンを投げ捨てると、俺の左腕をまじまじと凝視して真っ青になって。火傷の痛みに苦悶する俺を引っ張ってバスルームに連れて行き、蛇口を捻ってざあざあと流れる水に傷口を浸した。
「い、痛いよ・・・冷たいっ」
「・・・我慢しろ、我慢してくれ、頼むからっ」
「めちゃくちゃ痛いんだぞっ!冷たくて痛いんだ!もう、良いんじゃないかい?」
「もう少し、もう少しだけ・・・」
 じんじんとした激しい痛みに泣き叫ぶ俺の横で、ブルブルと身体を震わせながらイギリスも涙を流していた。腕の感覚がなくなった頃、ようやく彼は水を止めて。リビングのソファに俺を座らせると、薬箱から取り出した軟膏を塗った上に包帯を巻いてくれた。
「・・・すまない、すまなかった・・・アメリカ」
 翠の瞳からは絶えずぼろぼろと涙が零れ、目の回りは真っ赤になって腫れている。
「大丈夫だよ・・・もう、そんなに痛くないから。それより、俺の方こそごめん・・・」
 言って、そっと彼の頬に手を伸ばすと、びくりと震えて。彼は唇を噛んで立ち上がると、リビングを出て行った。しばらくして服を身に付けたイギリスが、手に俺の服を・・・きちんとアイロンで皺一つない状態になったそれを、持って来た。彼は皮膚が引き攣れて痛む俺が服を着るのを手助けしてくれて。温かな紅茶を一人分だけ淹れると、俺の前に置いた。
「・・・君は?」
「・・・・・・」
 彼はゆっくり首を横に振ると、小さな声でまた、すまなかったと呟いた。
「もういいよ、謝らないでよ」
 本心から言うのに、首をゆるゆると横に振ってイギリスは自室に篭ってしまった。
 昨日はあんなに幸せだったのに・・・このまま別れるのか?次にいつ会えるかも知れないのに。焦燥感に身を焦がす。閉じ篭ったって何もならないじゃないか。怪我はそのうち治るのだから、これ以上気に病むことはない。俺が言ってしまった言葉は・・・謝った。まだ謝罪が足りないというなら、いくらでも謝るよ。というか心から反省してる。欲望のままに突っ走るのはもう止める。たぶん。
 だから、俺が此処にいるのに、一人で泣かないでよ。


 もう、時間だ。行かなきゃいけない・・・。のろのろと足を動かして彼の自室のドアをノックする。
「イギリス・・・俺、行くよ」
 もぞりと身じろぎする気配を感じる。でも、ドアを開けるつもりはないようだ。ふぅと溜息を吐いて言葉を繋ぐ。
「アイロン、ありがとう。それと・・・言い過ぎたよ、悪かった。本心で言った訳じゃな・・・」
 途中からどたどたと足音が聞こえて、ばんっとドアが開いたら、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったイギリスの顔が現れた。
「ご、め・・・ごめんごめん・・・アメリカ、ごめん・・・」
「それは俺の台詞だよ。ひどいこと言ってごめん」
 彼は首をふるふる横に振って項垂れる。
「お前に、怪我させるつもり、なかったんだ・・・」
「わかってるよ、わかってる。それにもう痛くないし傷もだいぶ治ったよ」
 彼を安心させたくて少し嘘を吐く。
「すまなかった・・・ご、めん・・・」
 何を言っても肩を震わせて泣き続けるイギリスに、どうすれば良いのかわからない。
「お願いだよ、もう謝らないで・・・泣かないで」
「・・・っごめん・・・ごめん・・・」
 彼は譫言のように謝罪の言葉を繰り返すばかりで、涙はぽろぽろと零れて床を濡らす。
「ねぇイギリス、さっきのは全部俺が悪かったんだし、君がそうして泣いてることの方が、俺には辛いよ・・・」
 そう言うと、首を横に振りながらも、やっと彼は顔を上げてくれた。本当に君は俺の苦しみに弱いよね。ずびっと鼻を啜って俺の左腕を見る。
「・・・包帯緩んでる。巻き直してやるよ」
 言いながら伸びてくる彼の手を握って留める。――もう、傷を見せたくない。また泣かれたら堪らない。
「いいよ、後で自分でするから」
「でも」
「それより、もう行かなきゃいけないんだ」
「・・・・・・」
 再び項垂れて涙ぐむ。その涙は、俺を引き止めたいの?あぁ、引き止められなくたって此処にいたい。君が泣いてるのに置いて行くなんて嫌だ・・・。仕事、なんとかならないかな?今日の会議の内容は・・・結構重要な議題だったけど。俺一人の都合で会議を遅らせたら、合衆国は重大な損害を負う事になる。だけど・・・上司に掛け合ってみるか?
 俺が仕事の放棄に逡巡するのを見て取ったのだろう。イギリスはやんわりと繋いだ手を振りほどいて、静かな声で囁いた。
「・・・週末」
「え?」
「仕事か?」
「・・・いや」
 正しく言えば良く覚えてない。確か何かの会食があったような気がする。だけど。
「じゃあ週末、絶対会いに行く。仕事、なんとかして会いに行くから・・・会ってくれるか?」
 一生懸命涙を止めて潤んだ瞳を真っ直ぐ向けて来るから。
「もちろん!絶対、待ってる・・・!」
 優しくて毅い彼を、ぎゅっと抱き締めた。
 こんな時、彼には敵わないなと思う。週末に会えるかなんて、本当は彼にだってわからないはずなんだ。でも、そんな不確かな約束でも躊躇う俺の背を押すことになる。俺が信用を損なわないように、彼は自分の思いを抑えて俺の為に毅然たる態度を取る。それが彼の優しさ、毅さだ。そんな彼を・・・俺は、心から尊敬する。そして、彼に育てられた者として・・・彼に恥じない生き方をしなければと思う。
 それでも本当に、もし会うことが叶ったら・・・その時は。彼を出迎えて抱き締めてキスして・・・ご飯を食べながら色んな話をして、DVD見ながら触れ合って、やさしくやさしく接しよう。そうして彼を傷付けた贖罪を。あぁそれまでに絶対意地でもこの火傷を治さなきゃ。まだ傷が残っていたら、また彼は泣き出してしまうだろうから。
 そんな事を考えていたら、彼を抱く腕に無意識に力を込めていたらしい。
「ア、メ・・・苦し・・・っ」
「あっごめん!」
 慌てて手を離すと、イギリスはけほっと咳込みながらほっとした顔をして・・・潤んだ瞳で見上げてきた。ごくん。扇情的なその顔に、下半身に熱が集中するのを感じる。いや待って、さっき俺反省したよね?なんでも欲望の赴くままに行動するのは止めようって誓ったよね?俺はイギリスを愛してるのであって、彼の身体が目的で付き合ってる訳じゃないよ?そりゃイギリスの身体好きだけど。気持ち良いし相性抜群だし。喘ぐ声は艶やかで潤んだ瞳が熱っぽくて・・・。いやでも・・・ていうかフライトの時間がぁっ!
 ドキドキばくばくと心臓は忙しない。おろおろと色んな意味で躊躇う俺に、イギリスは顔を寄せて軽く啄むようにキスをした。
「・・・ぃ、ギリス・・・!」
 欲望のままに行動する方向へ一瞬でシフトして、イギリスを抱き締めようと手を伸ばすと。するりと彼は身をかわして。
「続きは週末にな」
 にやりと笑って俺の背をトンと押した。――この熱を、どうしてくれるんだ!
「煽った責任、取ってよ・・・!」
「ばぁか、軽くキスしただけだろ?興奮すんなよ」
「キスだけじゃないよっ」
「・・・・・・?」
 イギリスはきょとんとして首を傾げる。あぁもう無自覚って性質悪いっ!
「・・・週末、抱き潰しても文句言わないでよねっ」
「やれるもんならやってみろよ」
 余裕ありげにふふんと鼻を鳴らす。よし、覚悟してろよ!?君がもう無理って言っても止めてあげないんだぞ!ベッドから降りられなくなっても知らないんだからな!あと性的欲求はもう少し君の身体に満足したら落ち着くと思うから、それまでは付き合ってよね。
 自分に甘い結論に達した後、挑戦的なイギリスに濃厚なキスをお見舞いして。かくんと腰が抜けて、俺が欲しくて堪らない身体にしてやってから。
「――続きは週末にね」
 にこりと笑って身体を離す。
「ば、かぁ・・・っ」
 ずるりと崩れ落ちて、ぺたんとその場に座り込んだイギリスに手を振って、玄関に向かった。
 週末が、愉しみだ。







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