Arthur


 ゆらゆらと、温かな水の檻に浮かべられ頼りなくたゆたう。人間の子は生まれる迄母の胎内で水に包まれて眠るというが、このような感覚なのだろうか。誰かが眠れ眠れと耳元で唄うように囁く。その声に誘われるように夢を見る。脳裏に浮かぶは事の始まり、あの子を授けられたあの日。



 それまでの自分は己の本能に忠実に生きてきた。
 淫魔の食事はキスから得られる精気、それは相手の興奮が最高潮に達した時、何よりも美味しく熟れた果実のように甘くなる。極上の一品と言っていい。淫魔によってはその興奮を引き出す為に死を目前にした極度の緊張を与えて得る者もいるが、俺は綺麗でないそのやり方が好きじゃない。どうせならお互い気持ちいい思いをして得る方がいいだろ、相性が良ければ何度でも頂けるし。
 そんな訳で俺は暇さえあれば人間界に行って好みのタイプに声を掛け、誘惑してまぐわった。快楽を貪り淫蕩に耽り、乱れかそけく喘ぎあられもない嬌声をあげ、精気を啜る。俺が相手に男ばかり選んできたのは、単なる趣味でもあったし男の方が美味いと思うからだ。
 ああ思い出しただけでも喉が渇く。身体が疼く。今すぐ俺の尻穴に誰でもいいからぶっといのを捩じ込んで掻き回してくれねぇかな。・・・嘘、誰でも良くねぇ、今はあいつじゃなきゃ嫌だ。
 魔王に喚ばれたのはそんな淫奔な生活に心が乾いてきた頃だった。今日もまた人間界に行って獲物を探そうかという時、城に喚ばれたのだ。
 まさか、と思った。同時に納得もした。最近の魔界の不安定さにはとうに気付いていた。唐突に地が裂け火が噴き空が揺れる。空間が徐々に闇に還り失われていく。魔界に身を置く誰もが異変を肌で感じていた。だから魔王が淫魔である俺を喚んでいると聞いて、その理由にはすぐに見当がついた。――それは恐らく、現魔王の終焉の瞬間が近いということだ。
 魔王は魔界を支配するだけでなく魔界そのものでもある。その存在に拠ってすべて成り立つ。けれども魔王とて完全な存在ではなく始まりと終わりを持つ悪魔の一人に過ぎない。だから魔王は代々力を結晶化させ次代へと繋いでいき、魔界を永久に統べる。淫魔はその次期魔王の生みの親となるのだ。
 数多いる淫魔が一人残らず玉座の間に集められ魔王の前に跪く。深紅の瞳に頭の中を覗かれ身の内すべて暴かれ、そうして俺は選ばれた。
 豪奢な造りの別室に通されると、そこで服を脱ぐように指示される。黒衣に自ら手を掛けぞんざいに脱ぎ捨てて一糸纏わぬ姿になれば、薄布を幾重にも垂らした天蓋付きのベッドに静かに沈められた。艶やかな漆黒のシーツに皺を作って身を横たえた俺の薄っぺらい腹を、魔王はつるりと撫ぜてにやりと笑った。
「頼んだぜアーサー、良い子に育ててくれよ」
 そう言うと魔王は自らの胸へと指を沈め、ぐいっと何かを掴む仕草をして引き出す。血痕すら付着していない掌を広げると、顕れたのは綺麗な薄桃色の結晶。それを魔王は躊躇なく俺の胎内に埋め込んだ。瞬間、火の玉でも飲み込んだかのような高温の熱が身の内に発生し、炎が舐めるように胎内を、全身を内側から灼いていく。意識が濁流に飲み込まれ激しく掻き乱され、息もできず、俺は昏倒した。
 そうして俺は夢を見た。夢の中であの子と出会った――魔王の子に。


 空は青く高く何処までも果てしなく広がり、地には緑が青々と生い茂り、樹木にはたわわに果実が実っている。そよぐ風はやさしく頬を撫で、静謐な世界で、さやさやと葉が擦れる音だけがやわらかく耳朶を揺らす。
 雄大で豊かな情景なのに、何かが足りない。光り溢れる輝かしい俺の夢の世界・・・だけど何かが足りない。俺はひとりきりでぽつんと立っている。言い知れぬ孤独と寂寥に苛まれ胸が張り裂けそうだ。どうして俺は生まれてきたのか――答えなど出ない疑問が常に胸のうちにある。
 どうしようもなく居た堪れなくて夢を畳もうと思った瞬間、目の前に広がる緑の草原に漆黒の羽根が一片ふわりと落ちた。羽根は瞬き一つの間に小ぶりではあるけれど完全なる一対の翼となり、ぱたぱたと愛らしく羽ばたく。草を踏み分けて近付けば、翼の生えた小さな背中はびくりと震え、擡げた頭がぴょこんと起き上がる。澄んだ空のような水色の瞳が俺を映す。生まれたばかりの純粋無垢な魂は、てらいなくにこりと笑った。
「やぁ」
 子供は疑うことも知らず、悪意も敵意も拒絶もなく、無条件に俺を受け容れる。燦々と降り注ぐ陽光を柔肌に浴びて、ちょこんと草原に座り込んだまま真っ直ぐに視線を逸らすことなく俺を見る。その瞳にぎゅっと胸の奥が締め付けられ、訳もわからず涙が零れた。泣くのは生まれたばかりの赤子のはずが、何故か子供は笑い自分がぼろぼろ泣いている。なんだこの情けない状況。でも涙が止まらない――。
「だいじょうぶ?」
 止めようと思えば思う程涙は留まることを知らずに溢れて、必死に両の腕でぐいぐい乱暴に拭っていると、軽くズボンを引っ張られ可愛い声が近くで聞こえた。慌てて見下ろせば、子供の心配そうに揺れる真摯な瞳とぶつかった。その素直でやさしい心に触れ、自然に笑みが零れる。
「だいじょうぶ?どこかいたいの?」
「大丈夫だ、痛いんじゃない・・・違うんだ。俺は、お前に会えて嬉しいんだ」
 なんとかやさしく見えるように微笑みかければ、子供は一瞬きょとんとして。ふわりと花が綻ぶように笑った。眩しい笑顔に釣られて俺も笑い出す。そうして気付けば二人で大笑いしていた。
「お前に名前を付けてやらなきゃな」
 いつまでも屈託なくくすくすと笑い続ける子供に黒衣を与えて包んでやってから、漆黒の柔らかな髪を撫ぜながら、暫し思案する。
「お前は魔王となる身だ・・・偉大な王となるべく良き助言者に恵まれるよう、アルフレッドと名づけよう」
「アルフレッド?」
「そう、お前の名だ」
 子供はアルフレッドと口の中で呟くと、目をキラキラと輝かせて、ありがとうと言った。


 アルフレッドは出来た子だった。知識も智慧も何もかも、俺が与えるものすべてを乾いた土地が水を吸収するように呑み込んで、自分の糧とする。夢の中なので時の経過など俺次第ではあるのだけど、現実世界だとしても幾らも経たないうちにアルフレッドは、自分の拠るべき処、有るべき姿、為すべき事を理解した。内面の成長に引き摺られるように背丈もぐんぐんと伸び、あっという間に俺の肩と同じくらいになった。そして、アルフレッドの頭の両サイドに、真新しい漆黒の愛らしい角が生えた。
「見てくれよ、アーサー!とうとう角が生えたんだぞ!」
 嬉しそうにくるくる回りながら俺に何度も生えたばかりの角を見せてくる。まだ3cm程度、同色の髪に埋もれて遠目には見えないような可愛らしいものだが、悪魔は角が生えることで魔力を持つ。逆に言えば角がなければ無力な人間と同じ。悪魔にとって角とは存在価値と同義だ。
「そうだな、おめでとうアル、これでお前も一人前だ」
「角が生えたってことは魔力もあるのかな?あの山を吹き飛ばしてみようか!」
「ばぁか、そんなちっちゃい角じゃまだ大した魔力ねぇよ。山どころかそこら辺の石ころすら飛ばせねぇよ」
「えーつまんないんだぞ!」
 不満気にぷくっと頬を膨らますアルフレッドにくつくつ笑いながら、それでもと続ける。
「お前の成長は早いからな、明日にはその角も大きく伸びて魔力も増幅して、山は無理でも木を倒すくらいできるようになってるかもな」
「うー・・・早く大きくなりたいんだぞ」
「早く魔王になりたいか?」
 一生懸命角を撫でたり引っ張ったりして大きくしようとする子供らしい姿に微笑みながら尋ねれば、当然のように大きく首肯した。
「うん!早く大きくなって君に負けないくらい力つけて魔王になるんだぞ!そしたら・・・」
「そしたら?」
「・・・えへへ、この先は秘密なんだぞ」
「なんだよ、言えよ。お前の決意聞いてやるからさ」
 ぽっと頬をピンク色に染めてもじもじする様子に首を傾げて問い質すが、アルフレッドは笑ってふるふると首を横に振った。
「その時が来たら言うよ。君に聞いてもらいたいんだ」
 きっぱり言い切ると口をきゅっと結んで、にこりと笑った。こいつの頑固さはこれまでの日々で既に承知している。こうなったら絶対口を割らないんだ。


 アルフレッドの願いが強かった為か、魔王の子としての素質か、角は存外早く伸びた。それも太く逞しく猛々しく。魔王の角、それは比類なき魔力の証。並んで立つ俺の角がみすぼらしく見えてちょっと・・・いやかなり悔しい。ぎぎぎ・・・とアルフレッドの角を睨んでいれば、君はしつこいなとけらけら笑われた。
 俺だってわかってるんだ、育てた子が立派に成長したのだから素直に喜べばいいって。わかってんだけどやっぱ俺の悪魔としての矜持が認めたくなくてさ。ああほんと俺ってどうしようもねぇな。
 自己嫌悪に陥ってうっかり涙ぐんでいると、アルフレッドは慰めるようにそっと俺を腕の中に迎え入れてくれた。
「君はそのままでいいんだよ」
 やさしい一言で俺の中の僻みやわだかまりはあっという間に霧散してしまう。俺って実はものすごく単純なのではなかろうか。
 今や俺の背を追い越し、筋肉質でがっしりとした身体に成長したアルフレッドは、ぎゅうっと俺の薄っぺらくて貧相な身体を抱き締めてくれる。その温もりに安心して目を閉じた――瞬間、俺の腹に業火が発生し身体を内側から灼いた。
 瞼の裏がチリチリと刺すように痛み、意識を無理矢理覚醒させられる。気付けばあの日の魔王の城、漆黒のレースが幾重にも垂れた天蓋に囲まれたベッドの上。但し、一人じゃない。俺と同じく全裸の男が隣で寝そべっている。
 重ねられた枕の上に散った漆黒の艶やかな髪を一筋摘んで弄べば、固く閉ざされた瞼がぴくりと震えた。緩やかに開かれ、夢の中で見たのと同じ澄んだ空の色が現れる。覚醒した・・・いや、アルフレッドは今、この世に生まれた。


 きしっとベッドを軋ませながら身を起こして顔を覗き込むと、目覚めたばかりのアルフレッドは幾度か瞬きをして、ぼんやりと俺を視界に入れた。アーサーと、俺の名を呼ばわりながら手を伸ばしてくるから、その手を取って自分の頬に充ててやる。アルフレッドは安心したのか嬉しそうに笑って、俺の頬を撫ぜながら親指の腹で唇に触れる。ぺろりと舌の先で舐めるとくすぐったそうに笑って、ようやく上半身を起こして俺に向き合った。
 部屋の中に既に魔王の姿はない。此処にいるのは俺とアルフレッドだけだ。けれど俺がこれから為すべきことはわかっている。
「おめでとう、アル。お前が生まれたことが俺は嬉しい」
 アルフレッドの手を取ると、その甲に恭しく口づけた。
「ありがとう、アーサー。俺を産んでくれて」
「此処が魔界だ。お前が生きていく場所、統べるべき世界だ」
「・・・うん、思ったより暗いね。空気も重苦しいし。君の夢の中の方が光輝いていて素敵だったよ」
 そう言ってアルフレッドは寝所の窓から見える空を見上げた。どんよりと赤黒い雲に覆われた空は、あちこちで雷光が散っている。今も何処かの場所が消滅して闇に還っているのだろう。誰かの劈くような悲鳴が空気に溶けていて、ねっとりと肌に纏わり付く。
「現魔王の限界が近いからな、崩壊寸前なんだ。お前が魔王になれば世界は新しく生まれ変わる」
「わかった。それで・・・魔王になるにはどうすれば良いんだい?今の魔王を倒すのかい?」
「ばか、違ぇよ。俺を抱けばいいんだ」
「・・・・・・は?」
 さらっと端的に言えばアルフレッドは目を瞬かせてきょとんとした。笑みを貼り付かせたままぴしっと固まってしまったアルフレッドに、もう少し説明を加える。
「俺と身体を繋げることで胎内に埋め込まれた魔王の結晶がお前の中に移る。それでお前は魔王になれるんだ」
「そ、それだけ?」
 ぱっと全身を朱に染めてごくんと喉を鳴らし、落ち着きなく手を握ったり開いたりしている。まぁ生まれたばかりでいきなり生みの親とセックスしろと言ってるんだから、当然こういう反応になるよなぁ。初心で可愛い。思わずぺろりと舌なめずりしてしまった。
「もちろんすぐに現魔王と交代するわけじゃないけどな。魔王の結晶を宿す淫魔と結ばれて、魔力が引き継がれた数日後に魔王が消滅する。それからお前はその座に就いて魔界を作り替える。だからまぁ、数日間は次期魔王という立場なんだが・・・魔界を支える魔力の在り処という意味では、お前が魔王てことになる」
 今後のアルフレッドの進む道、魔王になる手順を説明すれば、戸惑いつつも自分の責務を思い出したのか表情を改め姿勢を正した。
「ふぅん・・・魔界を作り替えるって、俺の好きなようにできるのかい?」
「あぁ、お前が思い描く世界を作ればいい。――お前なら、見事な世界を作れるよ。俺が保証する」
 この心根が真っ直ぐで強く優しい子が魔王になれば、きっと素晴らしい世界が生まれる。そこであの夢の中のようなやさしい時間を共に過ごすのだ。アルフレッドと出会って俺の乾いた心は、無償の愛によって潤い満ち足りた。こいつなしにはもう生きていけない。これからも傍にいたい、傍にいて欲しい。
「俺が思い描く世界、ね。それなら君の夢みたいな世界がいいな。俺が生まれ育ったあの美しくて優しい情景を魔界にしたい」
「・・・そっか」
 俺の作った夢を理想郷のように語るアルフレッドが愛しい。こいつの為ならなんだってできる――アルフレッドの為に生きていける。既に心に決めていた想いを、もう一度胸のうちで誓った。


「あぁそれと、俺を抱くことで俺達は主従の契約を結ぶことになる」
「契約?」
「そうだ。俺はお前の第一の下僕となる。お前の思うが儘に動き、非常時には害なす者達からお前を護り、平時には身の内に蓄えた精気を差し出し力を与える存在となる。――要するに、お前の手駒になる訳だ」
 身体を繋ぐことはアルフレッドが魔王になる儀式であると同時に、生みの親である俺を従属させる楔を打つ行為でもある。
「手駒って・・・思うが儘って、君の意思は?」
「んなもん失くなる。俺はお前の唯一無二の下僕となるんだ、なんでもお前の望む儘だ。死ねと言われたら死ぬ、極限の命令でも従う。絶対に裏切らない」
「・・・・・・」
 きっぱり言い切れば、アルフレッドはさっと顔色を変えて見るからに身体を強張らせた。・・・俺を下僕にすることに責任でも感じたのだろうか?でもこれから数多いる悪魔を従えて支配しなきゃいけないんだ。俺一人くらいでそんな風に重圧感じてんじゃねぇよ。
「ほら、さっさと俺を抱けよ。やり方は夢の中で教えただろ?それとも初めてだからもっとムードでも作った方がいいか?俺がリードしてやろうか?」
 言いながら誘うように身を寄せ、アルフレッドに触れようと手を伸ばした瞬間。ぱしっと手を払いのけられた。
「・・・触らないでくれ」
「え?」
「俺は嫌だ」
 喉の奥から絞り出したかのような低く掠れた声で、アルフレッドは何事かを俺に告げる。けれどアルフレッドの言葉の意味がわからない。払いのけられた手が虚しく宙を掻き、嫌な予感がじわりと胸に広がり、頭の奥がガンガンと痛む。
「・・・アル?」
 歪な笑みを貼りつけたまま、震える声で何を言っているのかと尋ねれば。
「俺は嫌だ。君を抱くなんて・・・嫌だ」
 アルフレッドは、水色の瞳に静かな炎を灯して、俺を――拒絶した。


「なっ・・・何、莫迦なこと言ってんじゃねぇ!!」
「莫迦なことじゃないよ!そんなの・・・そんなの、俺は嫌だ!認められない!」
 カッとなって怒鳴りつければ、釣られるようにアルフレッドも眦を決して声を張り上げた。
「ふざけんじゃねぇっ!わかってんのか!?このまま新たな魔王が誕生しなければ現魔王の消滅と共に世界が滅んじまうんだぞ!」
「わかってるよ!でも、でも・・・嫌だ!!君が下僕だなんて、そんなの要らない!君を抱かなきゃ魔王になれないと言うなら俺は魔王にならない!!」
「アルフレッド・・・っ!?」
 あまりのことに悲鳴のような声しか出ない。魔王の子が魔王になることを拒否するなんて、あってはならないことだ。アルフレッドは何を言ってるんだ。あの聡明な子が、十分な素質に恵まれた魔王になるべくして生まれた子が、魔王にならないだなんて。
 沸き起こった怒りと哀しみに胸が締め付けられる。なんとか説得しなければと思うのに、混乱した頭では何を言えばいいのかわからない。ただ口をぱくぱくさせて首を横に振れば、アルフレッドはぎりっと歯軋りしてこれまで見たこともない凶暴な目つきで俺を睨んだ。
「――――っ、くたばれアーサー!!」
 言うなりアルフレッドはベッドの上の漆黒のシーツを纏い、身を翻すと窓から外へと飛び出した。俺を振り返ることなく、遠い空へと羽ばたき、その姿はすぐに見えなくなってしまった。
「あ、アルフレッドの・・・ばかぁぁぁぁっ!!」
 窓に駆け寄って、姿が消えた方向へ思いの丈を叫ぶ。そうしてからずるずると崩れ落ちて床にへたれ込んだ。ぼろぼろと涙が溢れて止まらない。雫が落ちる度、深紅の絨毯に濃い染みが点々と作られた。
 アルフレッドが俺を裏切った。こんな俺でも好きだと受け容れてくれた子供が、俺を要らないと言った。俺を、拒んだ――。心が痛い、哀しくて苦しくて辛い。軋んで心の臓から真っ赤な鮮血が噴き出しているようだ。
 あいつになら俺のすべてを捧げてもいいと思ったんだ。全部くれてやろうと思ったんだ。なのに、あいつは要らないと、俺の存在は無価値であるかのように切り捨てた。俺を抱くくらいなら魔王にならないとまで言った。
「ばかぁ・・・っ」
 悲痛な叫びはアルフレッドには届かない。ただ、その場に蹲って俺は涙が枯れるまで泣き続けた。



 ぴちゃん。
 水を打つ音で意識が表層に浮かんだ。息をしようと口を開けばこぽこぽと泡が漏れた。纏わり付く液体が鬱陶しくて眉を顰める。瞳を開けることなく自分が置かれた状況を把握しようと意識を研ぎ澄ませば、触れる水はぴりぴりと肌を刺し緩やかに体力を消耗させていく。間違いなく魔力が篭められているこの水の檻は、恐らく俺を捕らえ拐った悪魔によるもの。アントーニョ・・・黒髪緑眼のあの淫魔、俺とアルフレッドに敵対する存在。
 人間界でガキの姿に変えられ魔力を失った俺は、あの瞬間何の抵抗もできなかった。轟と大気を揺さぶる不可視の魔力に押し潰され、俺は地に縫い付けられた。傍に降り立ったあいつはニィっと愉しげに嗤い、容赦なく俺の頭を蹴り飛ばした。
 固い靴底をまともに喰らいがつんと衝撃が走って、瞼の裏が朱に染まり、俺は意識を失った。
 あの瞬間を思い出して悔しさに我知らず唇を噛み締めれば、再びぱちゃっと水が跳ねる音が届いた。不意に髪を鷲掴みにされる。思わずびくんと身体を竦ませてしまうと、悪意を潜ませた明るい声音で名を喚ばれた。
「起きとるんやろアーサー、ご挨拶はないんか?」
 偉そうな言葉にイラッとして、髪を掴むアントーニョの指をぐいっと直角に折り曲げてやった。関節と真逆に。
「痛だだだだっ!!あーもーほんまにやることえげつないわーガキの格好しとるけど中身はやっぱいつもの凶悪眉毛だわー」
「黙れ、ペド野郎」
 慌てて手を引っ込めてわざとらしい程に痛がるアントーニョの顔をじろりと睨み付ける。視線で殺せるものなら今すぐ殺してやる。
「ペドなんはお互い様やろ?自分かて育てたガキに懸想しとるやないか」
「うるせぇ、元々ペド嗜好のてめぇと一緒にすんじゃねぇっ!さっさと此処から出しやがれ!」
 がんっと檻を蹴飛ばしたつもりが、ぶぉんと水に衝撃を吸収されてしまい檻はびくともしなかった。ちっ・・・魔力さえあればこんなのすぐ消滅させて出て行けるのに。未だ俺の身体はガキのままで、魔力の元である角がない。
「冗談やろ、せっかくのチャンスやのに何で出してやらなあかんねん。お前がこの檻の中でねんねしとる間に、俺はあいつと懇ろになって来るわ。そいで俺らの勝ちや」
「へっ、嫌われてるから無理だろ」
「嫌われてへん!ロヴィはツンデレなだけや!」
 一方的で実現不可能な勝利宣言を、はんっと鼻で哂えばアントーニョは顔を真っ赤にしてポコポコ怒り出した。その色はまるでこいつが大好きなトマトのようだ。
 このまま怒らせて魔術に粗が生まれた隙に抜け出せないかと考えた時、ドタバタと部屋の外から騒がしい足音が響き、バタンと激しくドアが開け放たれた。
「おいアントーニョ!アーサー捕まえたってマジ・・・、ぎゃああぁっアーサー!!?」
 入って来るなり俺の顔を見て悲鳴を上げたのは漆黒の悪魔。背丈はそんなに高くなく身体つきもひょろっとしているが、背に負う翼は大きく立派で、頭に生えた二本の角はアルフレッドのそれに比肩する程太く猛々しい。――そう、こいつも魔王の子だから。


 本来は一人しか生まれない魔王の子だったが、現魔王は酔狂に二人の子を成した。アルフレッドとロヴィーノ。あの日俺が選ばれて結晶を授かると同時に、アントーニョも選ばれていた。別の部屋でアントーニョも夢を紡ぎロヴィーノを育て上げ、この世に産み落としていた。・・・俺より先に。
 もしロヴィーノが生まれてすぐに儀式、つまるところヤっちまっていたら、今頃奴が魔王となって世界は作り変えられていた。俺とアルフレッドは一介の悪魔のまま、奴を魔王と崇め奉っていただろう。けれどロヴィーノはアントーニョと身体を繋ぐことを拒み、魔王になることも拒否した。曰く、面倒くさいと。
 自らが育てた子を魔王にすることを諦めきれないアントーニョは、俺とアルフレッドを狙い攻撃を仕掛けて来た。謂れなき暴力を受け容れてやる義理はない、アルフレッドは毅然と反撃した。魔王の子は二人も要らないというアントーニョの意見には激しく同意できるので、俺も容赦なく反撃、むしろこちらから積極的にボコることにした。
 争いを嫌う・・・というより面倒くさがるロヴィーノが表に出て来ることは少なかったが、曲がりなりにも魔王の子であるアルフレッドの攻撃にアントーニョが危険な状態に晒されれば、常に駆けつけて来た。俺が様々な罠を仕掛けてロヴィーノを傷めつければ、お返しとばかりにアントーニョも狡猾な罠を敷き、元来素直なアルフレッドは良く嵌った。俺も、嵌った。
 なかなか決着が付かないうちに周囲は面白がって派閥を勝手に作り出して。そうして魔界の勢力は二分し、日々諍いに明け暮れ、相手の隙を突いては徹底的に痛めつけ合って・・・今に至る訳だ。


「ロヴィ、ええとこ来たな。アーサー見ての通り捕まえたで。せやからもう邪魔されへん。これで安心して俺ら・・・」
「何連れて来てんだよバカヤロー!!怖いだろうがよぉぉ!」
 腕を広げて晴れ晴れとした表情で出迎えるアントーニョに、ロヴィーノは見事なドロップキックをお見舞いした。ひらりと着地すると、ごふっと血を吐いて倒れたアントーニョの傍に仁王立ちになる。
「安心したってぇな、ちゃんと檻に入れとるしチビやからこの眉毛何もできへんよ?ほらこうして抓っても・・・」
 よろよろと起き上がるなりアントーニョは性懲りもなく檻の中へ手を差し入れ、あろうことか俺の頬を抓ろうとしたので思い切りがぶっと噛み付いてやった。この際だ、噛み千切ってやる。
「痛でででっ!!切れる切れてまう、指なくなってまうぅぅぅっ!!」
「大丈夫じゃねぇだろーが、くそったれ!」
 じたばたと暴れて引き抜こうとする指を両手でがっちりホールドして、ぎりぎりと容赦なく歯を立てれば、慌てたロヴィーノが俺の目の前に火花を散らした。バチンっと脳に直接衝撃を受けて身体が弛緩した隙に、アントーニョは檻から遠ざかってしまう。俺が噛み付いたところをロヴィーノが必死に手当しているのが、歪んだ視界に映った。
「ったく、世話焼かせやがって。で、こいつ捕まえてどうすんだよ。今頃アルの奴キレてんぞ」
 心底面倒くさそうに俺を見遣るロヴィーノが呟けば、アントーニョはケラケラと笑って大丈夫と言うように手を振った。
「へーきへーき、アルもチビになってるから」
「はぁ?」
「こいつら人間なんぞにチビにされてもうてん。そんで魔力ないから何もできんし魔界にも戻って来れんのや。ほんましょーもな」
 愉しげに俺達の現状を語るアントーニョに殺意を抱いてぎりぎり睨み付ける。元の姿に戻ったらぜってーシメる。アイツの翼ビリッビリに引き裂いて尻尾なんざ引っこ抜いて、縛り上げて酸の沼にじゃぶじゃぶ浸けて手足からゆっくり溶かしてやる。ヤラれたことは千倍返しが俺の信条だ、知ってるよな?
「・・・じゃあアルはチビのまま人間に捕まってんのかよ」
 あっけらかんとしたアントーニョとは対照的に、ロヴィーノは表情を曇らせた。
「そ。せやから今のうちに俺らたっぷりイチャイチャしよ?親分、ロヴィにならあんなことやこんなことされてもええで。なんなら親分があーんなことやこーんなこと、ぶほっ!!」
 だらしなく鼻の下を伸ばしてニタァっと笑い、あれこれと下劣な行為を彷彿させる仕草を見せるアントーニョの頬を、ロヴィーノが力一杯殴りつけた。更には床に倒れ伏したアントーニョの背をがすがすと踏みつける。
「ふっざけんな!なんで俺がてめぇをヤらなきゃなんねーんだよ!!その腐ったトマトみてぇなケツ近付けんじゃねぇぇぇっ!!」
「ちょっ、腐ったトマトだなんて酷いやんか!!親分ちゃんと何時ロヴィに抱かれてもええように手入れは欠かしてないんやで!?」
「俺はてめぇを抱かねぇって何度言ったらわかるんだ、このトマト頭!!」
「トマトを莫迦にしたらあかん!トマトは栄養豊富なんやで!?」
「論点はそこじゃねぇだろうがよ!ったく、俺迎えに行って来る」
 止めとばかりにアントーニョの横っ腹に靴の爪先をがつんと捩じ込んで悶絶させると、ロヴィーノはきっぱりとした表情で踵を返した。その発言の意味がわからずアントーニョが目を丸くする。俺も、理解できなかった。
「へ?」
「アルだよ、一人じゃ戻って来れねぇんだろ?」
 間抜けな声を出したアントーニョをちらりと背中越しに見遣って、ロヴィーノは言った。アルフレッドを助けに行くと。
「ちょっ・・・待ってぇな、なんでロヴィが行かなあかんねん」
 慌てて起き上がり不満気に肩を掴んで引き止めたアントーニョに、ロヴィーノは身体を向き直し、真正面から見返してはっきりと言い放った。
「俺にとってあいつは兄弟なんだよ!放っておけるか!」


 ぴしゃーーーん!!ずががががっ!!
 聞き慣れた音、見慣れた白光が突如降り掛かり視界を灼いた。咄嗟にロヴィーノが俺達の周囲に防御壁を張ってくれたが、完全には防げなかったらしい。バリバリという雷光を受け、水の中にいた俺は特に酷く衝撃を受け感電した。痺れる身体、揺らぐ視界で朧気ながら周囲を見れば、アントーニョの屋敷は跡形もなく消え失せていた。あちらこちらでパリパリと残った火花が散り、焼け焦げた柱や家具から煙が立ち上る。
 呆気に取られたアントーニョ、びくりと肩を震わせて怯えるロヴィーノの姿を目に止めて。それからゆっくりと空を仰ぎ見る。
 見上げた先には予想通りの人影。水色の瞳をギラギラと怒りに燃え上がらせ、口元には酷薄な笑みを剥いて。昏い狂気にも似たオーラを身に纏い、殺意そのものを刃に変化させて降り注ぎながら。
 アルフレッドが、いた。




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